補説22

二重信仰


 本文で述べた様に、ウラジーミル公によるキリスト教受け入れは一応の成功を収めましたが、それが「上からの改宗」であり、時間をかけた布教ではなく政治上の決定によって行われたものであることもまた事実でした。人々は長きにわたってペルーンをはじめとする多神教信仰に慣れ親しんでおり、こうした土壌の上にキリスト教を強制したことは後々まで問題を残す結果になります。


 いわゆる「二重信仰」、キリスト教と異教との混合が生み出されるのも以上のような背景があってのことでした。人々はキリスト教を形の上では受け入れながら実際は旧来の信仰を捨てず、折に触れて異教的な祭礼すら行う有り様で、そのキリスト教信仰はまったく形骸化されていることが多かったのです。
 もちろんこれは教会当局の深く遺憾とするところで、異教的な祖先崇拝を保持し恥ずべき異教の祭礼にふけっている民衆への非難・教化を目的とした文書はいくつも作られています。問題は人々の意識の中で古来の異教的要素とキリスト教信仰が一体化してしまったことでした。つまり異教的なものを崇拝しながら意識の上では自らをキリスト教徒と見なしているわけで、こうなると教会側からの非難も効力を発揮することはありませんでした。

 もっともキリスト教化を進めた教会や公権力の側にもまた原因の一端はあったと言えます。それまでの世界観とはあまりに異なっていたキリスト教を導入するにあたって、彼らが異教信仰を「利用」した事実は否めないからです。
 例えばウラジーミルは異教の「偶像」があった場所ごとに教会を建てるよう命じていますが、かつての異教的聖所をそのまま教会に利用する例は多く観察されているようです。明らかにその場所に対する人々の神聖視を意識してのことでしょう。
 さらに数多くの聖人や天使が、異教の神々が持っていた様々な機能を引き継ぐことになりました。彼らはかつての異教神と同じく豊作をもたらし、家畜を増やし、疫病を追い払うものとされ、人々が抵抗なくキリスト教を受け入れるのに大きな貢献をしたと言えます。例えば異教時代の945年、イーゴリ公がビザンツと結んだ条約において、異教徒のルーシは雷神ペルーンに、キリスト教徒のルーシは聖イリヤ教会で誓いを立てていますが、これは興味深いエピソードです。というのも聖イリヤ(預言者エリヤ)は雷をもたらすものとされ、民間信仰ではかつてのペルーンと同じ役割を果たしているからで、異教神の「キリスト教化」の萌芽はすでに現れていました。教会公認の聖人崇拝が民衆のキリスト教化を進めた一方、異教神の記憶を保存する役割を果たしたことは否定できないと思われます。

 以上のような異教的要素の強さは、しばしばロシアのキリスト教に特殊な現象として扱われることがあります。これはまた、ロシア人はキリスト教を「正しく」理解せず異教と混淆した歪んだ形で受け入れてしまったのだ、ロシア正教には本来のキリスト教からはほど遠い不純な要素が多いのだ、という批判的な解説にもつながっています。いびつなキリスト教認識がロシア人の世界観を歪め、結果としていささかアブノーマルな歴史につながっているのだ…というわけです。

 ロシアのキリスト教化が上から押しつけられる形で性急になされ、特に民衆レベルではうわべだけの信仰、異教的要素への接ぎ木が多かったことは事実でしょう。しかしこれを果たしてロシア「だけ」の現象と呼べるでしょうか。言い換えるなら、「純粋な」キリスト教とは何なのでしょうか。
 ローマ帝国の昔から、キリスト教を受け入れた国々にはすでに土着の宗教が存在していました。キリスト教化とはそれら在来宗教と戦い、排除していく過程に他なりません。しかし民衆の生活の中に根付いていることの多かった「異教」から信者の目を振り向かせるためにキリスト教も徐々に変化し、一部には多神教に近い要素をも受け入れていきます。例えば唯一絶対の神の他に個性豊かな天使や聖人たちが現れ、また異教時代に起源を持つ祭日が教会の定める聖なる日に変えられていきました。さらに、元来は偶像崇拝を厳しく否定していたキリスト教会において、聖像や聖遺物などの崇拝が行われるようにもなります。こうした事例は、何もロシアに限ったことではないと言えます。


 異教の時代が相対的に長く続いたこと、キリスト教が公の権力によって押しつけられたこと、などの条件により、ロシアのキリスト教が他に比べて異教からの影響を強く受けているのは確かだと思います。これを「本来の」キリスト教から逸脱したもの、と批判する考え方もありますが、むしろキリスト教という宗教のロシアへの適合形態、様々なキリスト教化のパターンのうちの一つと見るべきでしょう。重要なのは異教的要素・「二重信仰」が具体的にロシアの人々にどのような影響を与えたか、という問題で、これに関しては今も研究が続けられています。

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(99.08.11)


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