補説21

ウラジーミル以前のキリスト教(補遺)


 本文ではすでにルーシのキリスト教受け入れについてみたわけですが、ここでもう一度、ウラジーミル以前のルーシのキリスト教、いわば前史について補足しておきましょう。何事につけ変化にはそれに先立つ前兆というものがあるのですが、「ルーシの洗礼」も同じことで、ウラジーミルの決断には充分な根拠があったのです。

 当然のことながらルーシの基本住民であるスラヴ人も、また北方からやってきたヴァリャーグも、もともとはキリスト教徒ではありませんでした。彼らが信仰していたとされる神々については多少述べましたが、こうした半自然崇拝的な宗教形態はキリスト教受け入れまで長く続いていました。
 

 ルーシがキリスト教を知ったのは、やはりビザンツ帝国を通してでした。ヴァリャーグ主導のもとに帝国との交易・戦争を繰り返したルーシの人々は、いわばその副産物としてビザンツの文化に触れ、中にはその精神的支柱であったキリスト教を受け入れるものも出てきたのです。
 すでにウラジーミルの祖父イーゴリの時代に相当数のキリスト教とルーシがいたらしいことは以前にも触れましたが、実はそれよりもさらに前の時代、かなり大規模なルーシの改宗があったと考えられています。すなわち867年、当時コンスタンティノープルの総主教であったフォティオスは、その書簡の中でかつては傲慢で粗暴であった「ロス」の民が今やキリスト教を受け入れて我々の良き友となった、と書いているからです。
 同じくフォティオスの伝えるところでは、このロスの民は860年にはコンスタンティノープルを襲撃して帝国の人々を大いに恐れさせており、その対策の一つとして布教が行われたのかもしれません。また『原初年代記』の866年の記事には当時キエフを治めていたアスコルドとジルがコンスタンティノープルを攻撃した、とあって、フォティオスの伝える「ロス」とはアスコルド・ジルの時代のルーシであったと考えられています。しかしすでに見たようにアスコルドとジルの政権は新たに北からやってきたオレーグに滅ぼされ、最初のキリスト教ルーシの芽もどうやらここで摘み取られてしまったようです。

 とは言ってもルーシとビザンツとの交流が続く限り、キリスト教にひかれるルーシ人の存在も途絶えることはありませんでした。おそらく「異教徒」であったオレーグも、キリスト教を根絶やしにするような弾圧は行わなかったのでしょう。イーゴリの時代にはキエフに「預言者聖イリヤの教会」があったことが年代記に記されています。これが「大本山教会」であったという書かれ方からすると、キエフには他にも小さな教会群があったと考えられます。
 そしてその妻・オリガの時代になると、支配者である公妃自身がキリスト教に興味を持ち、これに改宗するという段階にまで至りました。キリスト教は遂に支配層の中にもその支持者を見いだしたわけです。

 ところで『原初年代記』には、1044年(ウラジーミルの子ヤロスラフの時代)にヤロポルクとオレーグ、すなわちウラジーミル公の二人の兄の「骨を洗礼」して埋葬した、という記事が見られます。ここから、彼らも実はキリスト教徒だったのではないか、と言われることもあるようです。
 確かに彼ら兄弟は父スヴャトスラフがしばしばキエフを留守にしていた関係上、祖母オリガの影響を受けてキリスト教に接近していた可能性はあります。ここまで来るとウラジーミルの改宗・ルーシの洗礼までは後一歩、ということができます。

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(99.07.22)


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