補説20
「真の教え」を求めて
ビザンツからのキリスト教受け入れに先立ってウラジーミルが行ったという諸信仰の比較の物語は、エピソードとしてもなかなか面白くできており、ロシア史を語る上でも言及されることが多いようです。基本的には『原初年代記』にしか現れない話なので、ここでも年代記を中心にこの物語を再構成していきたいと思います。
きっかけは986年、ボルガリ(ヴォルガのブルガール)から来たイスラム教徒がウラジーミルに面会し、マホメットの教えを受け入れるように勧めたことでした。このあとに続く物語は非常に有名なのですが「雑話」で書いたことがあるのでここでは省略します。実はこの前年にウラジーミルの対ボルガリ遠征の話が出ており、ルーシと東方ボルガ地方との接触が進んでいったことがこの挿話の背景にあると考えられます。
その後でネムツィ(ドイツ人)が来、カトリックを受け入れるように助言しました。このドイツ人は、キリスト教の神は本物だが「あなた方の神々は木です」、と遠慮のないことを言ったのですが、ウラジーミルは自分の祖先が受け入れていないのだから、とすげなく改宗を断って彼を帰らせています。
次に来たハザールのユダヤ教徒はもっと悪い待遇を受けています。ウラジーミルは彼にユダヤ人の国は今どこにあるのか、と意地の悪い質問をし、難癖をつけて彼を追い返してしまいました。
しかしその次にやって来た「グレキの哲学者」、すなわちビザンツの伝道師は全く違う扱いを受けています。ウラジーミルは詳しく彼の話を聞き、いちいちそれに感心し、いくつかの質問を行っています。つまり先に来た3人とははなから勝負にならなかったわけです。この記事の作者(聖職者)の意図は明らかで、東方正教の教えこそがもっとも優れたものであること、またそれがウラジーミルに最初から大きな感銘を与えたことを強調し、正教が受け入れられたことを当然の結果であるとしているのです。
興味深いのは、ここでウラジーミルがこの問題を「自分の貴族と町の長老」に謀ったことです。彼らの助言によりウラジーミルはそれぞれの教えを観察するため使者を派遣するのですが、公が改宗という重大な問題に関していわば独断専行するのではなく、臣下の意見を求める(と描写されている)のに注目すべきでしょう。スヴャトスラフ時代の、麾下の戦士達と一心同体であるべきという公の理想像はいまだに生きていたとも言えるし、また公の権力は身分の高い者どもの合議を無視できるほど強いものでもなかった、と言えるからです。後に現れる民会(ヴェーチェ)について考える上でも重要な問題です。
それはさて、この時ウラジーミルの使者が訪れたとされている相手はイスラム教、ローマカトリック、そしてビザンツの正教でした。すでにユダヤ教の可能性は除外されているのですが、ハザールが無力化された今、この宗教が持つインパクトが薄れていたことを物語っています。
最初に彼らが見たイスラムの礼拝では、「人々が狂ったようにあちこちを見廻し」、「悲しみとひどい悪臭」があるという有り様で、まったく受け入れるに足る教えとは思われませんでした。もちろんこれはひどい偏見であり、事実を伝えたものとは言えません。先の「哲学者」の言葉の中にもイスラム教徒は尻を洗った水で口をすすぐ、というようなわけの分からない情報があり、この種の歪んだイスラム・イメージはキリスト教世界では一般的だったのかもしれません。
次に訪れたカトリックの教会は、これほどひどい書かれ方はしていませんが、その勤行にはいかなる美しさも見られない、ということでやはり候補から脱落しています。
ここでも優位に立ったのはやはりビザンツ教会で、その豪壮華麗な典礼の様は素朴なルーシの使節団を虜にし、彼らは帰国してもその様子が忘れられず、ルーシにいることができないほどだ、と公に語っています。
こうして宣教師による説得と使節による観察の二つながらにビザンツ教会の優位が確認され、実際に改宗へとことが進められていきます。
見て分かるように、このエピソード全体に正教の側からするルーシ洗礼の正統化、ウラジーミルの決断の賛美という意図が充ちており、史実として受け入れるには躊躇せざるをえません。またこの物語の原型というべきものの存在も指摘されています。それはハザール帝国がいかにしてユダヤ教を受け入れたか、という伝説で、例の可汗ヨセフの手紙の中に収録されています。それによれば、かつてハザールの王は自分の前でユダヤ教・キリスト教・イスラム教の代表を論争させ、その結果ユダヤ教を受け入れたことになっているのです。これがウラジーミルの改宗物語に反映されている可能性は十分にあります。
しかしながら、これが作り事であるが故にまったく価値がない、ということはできません。ウラジーミルに改宗を迫ったとされる4つの教えが当時ルーシと何らかの関わりを持ち、そのいずれかが採用されてもおかしくない状況にあったことは確かなのです。かつての宗主国とも言えるハザールからは当然ユダヤ教が入ってきたであろうし、先代スヴャトスラフ以来の東方進出の結果イスラム教徒との接触が強まってきたことも考えられます。またスラヴ世界の西側にも手を伸ばしていたローマカトリックはルーシの視界に入る所まで接近していました。ウラジーミルにとって、ビザンツ教会が考えられる唯一の選択というわけではなかったのです。
それでもビザンツとルーシとの昔からの関わりを見るなら、正教の受け入れはある意味必然であったと言うことができるでしょう。和戦両方を通じたビザンツとの接触により、すでにルーシにも相当数の(正教の)キリスト教とが存在し、加えて公妃オリガが改宗を行っていたことはウラジーミルの決断に影響したと考えていいでしょう。貴族たちがウラジーミルに与えたとされる以下の助言には、その辺りの事情がよく反映されているように思われます。
「もしグレキの掟(正教)が悪かったなら、すべての人より賢明だったあなたの祖母オリガは受け入れなかったでしょう」
(99.05.08)
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