補説18

オレーグ・スヴャトスラヴィチはなぜリュトを殺したのか?


 この問題は、あるいはそれほど意味のないものと思われるかもしれません。単に誤解から生まれた偶発的な事件が重大な結果を引き起こしただけなのではないか、と。
 しかしロシア/ソ連の歴史学界では、この出来事に何らかの説明を付け、あるいはそれをもとに当時のキエフ社会を描写しようする試みが行われてきました。全体的に史料の少ない時代ゆえ、一見ささいな事件からもなにがしかを「学びとる」ことが求められたわけです。

 ではどういう結論がこの出来事から汲み出されたか。それを述べる前に、まずソヴィエトの歴史学界におけるキエフ・ルーシ像について書いておいた方がいいかと思います。
 非常に乱暴な割り切り方をすると、ソ連時代には「キエフ・ルーシ=封建制国家」という定義が公式のものになっていました。この問題についてはいずれ特別に取り上げる必要がありますが、今はただ「そうであった」とだけ言っておきましょう。
 「封建制」…わかるようなわからないような、奇妙な言葉です。例えば「日本相撲協会の封建的な体制を批判する」という感じで使われたりもしますが、これは単に「保守的」とか「男尊女卑」な状態を表現しているにすぎません。つまり何だかわからないけど古臭いものを批判するときに「封建制」が持ち出されることが多いようです。

 歴史学の世界でも「封建制」をどう定義するかについて様々な立場がありますが、大まかなところでは

1、現代のような中央集権的国家がなく、王が直接支配できる地域が限られている
2、従って王は有力者に土地を分配し、その支配を「委任」する
3、土地を得た者は、それを与えた王に忠誠を誓う義務を持つ
4、被支配階級は一般に農民であり、しかも多くの場合土地に縛り付けられた農奴であった

こんなところだと思います。江戸時代なんかを思い浮かべるとわかりやすいですね。確かに中央政府として「幕府」は存在しているが、しかし各地の支配はそれぞれの「藩」に任され、また藩の支配者である大名は自分の所領をさらに家臣たちに(知行として)分け与えていく。明治以降、東京の政府が日本全国を一括して支配下においたのとはまったく違う体制だったわけです。
 ふつう封建制の典型的な例と言われているのが中世西ヨーロッパの国制です。あるいは西欧中世の制度から「封建制」概念そのものが導き出されていると言った方が正確なのですが。で、キエフ・ルーシは大概「西欧中世史」の範疇から除外されているのですが、「西欧と同じような封建制がルーシにもあった」というのがソ連史学界の見解でありました。

 しかしこの説の最大の欠点は「証拠がない」ことです。何だそりゃと思われるかもしれませんが、実際キエフ時代の史料で封建制の存在を物語るようなものは驚くほど少ないのです。公が誰かに土地を与えたというような下賜文書もほとんどないし、また家臣が土地をもらう見返りに公のために働くというような事例もない。それどころか、公や貴族が(西欧の王侯のような)大土地所有者、いわゆる領主であったかも不明なのです。彼らが荘園を経営していたことを物語る土地台帳のような史料は今のところ見つかっていません。一方で年代記によると、初期の公や貴族は「巡回徴貢」による税の取り立てで収入を得ており、自分の所有する土地で農民を働かせていたという記録はありません。

 前置きが大変長くなりました。それでこの事件と封建制論との関係ですが、ソヴィエトの研究者たちは、リュトがオレーグの所有地に侵入したために殺された(「オレーグがいつも狩をしている所だったからである」)と解釈し、これを10世紀にはすでに公による大土地所有が発達していたという主張の裏付けにしました。封建社会の特徴である大土地所有制度がすでに存在していた=キエフ社会は封建的な社会であった、と最終的にはなるわけです。

 しかしながら、この事件をそのように受け取ることは果たして妥当か。年代記には「オレーグがいつも狩をしている所」とあるだけで、その森が彼の私有地であったという記述はどこにもありません。これをしてキエフ時代の大土地所有の根拠とするにはあまりにも薄弱であると思われます。
 さらに同じ年代記で語られているのは、オレーグが相手がリュトであると確認してから凶行に及んだ、ということです。すなわち彼はリュトを見かけて周りの人々にあれは誰かと尋ね、「スヴェネリドの子です」という返答を得てから「馬を寄せて彼を殺し」ています。明らかにオレーグは自分の所有地に侵入したものを無差別に殺したのではなく、相手が他ならぬリュトであったため殺人を行ったのです。
 

 あるいはこの殺人の背後にはより政治的な動機が隠されているのかもしれません。もう一度思い出していただきたいのですが、オレーグの配置されたドレヴリャーネの地はかつてはポリャーネとは不倶戴天の仇敵で、キエフの支配にもなかなか服そうとはしませんでした。オレーグの祖母オリガによってその抵抗は一応制圧されたのですが、かつての「独立時代」の記憶はいまだドレヴリャーネの人々の中には色濃く残っていたことでしょう。そしてそうした動きがオレーグ公の反中央集権、独立・自治的欲求を刺激した可能性は大いにあると思われます。これは今後語っていくことになりますが、ウラジーミル以後の時代にも地方に派遣された公が在地の勢力と結託して反キエフ的動きを見せることは度々起きているからです。
 以上のことを考えた場合、越境者がキエフの軍司令官スヴェネリドの子であったという事実は大きな意味を持つ可能性があります。オレーグがリュトの侵入をキエフからのスパイ行為、あるいは挑発であると受け取ったとしたら、有無を言わさず彼を殺すという乱暴な行為もある程度説明がつくからです。もちろんこれも仮説にすぎないのですが。

 …しかし「土地所有権侵害」とか「キエフからの政治的独立」とか、歴史学というのはやたらに小難しい説明をつけたがるものです。ここでは若いオレーグの激情、我が子を殺されたスヴェネリドの怒り、あるいは実の弟を殺さざるを得なかったヤロポルクの悲しみなど、人間的な動機はすべて後景に退いてしまいます。
 あるいはこの辺りが、「歴史小説は好まれるが専門の歴史書は誰も読まない」現状の理由なのかもしれません。歴史家は何らかの事件をそれに関わった人物個々のキャラクターではなく背後の大状況から説明しようとすることが多いのですが、どうしてもそれは無味乾燥な、面白味のない記述になってしまいがちだからです。
 

 実際に歴史学の世界に(少しだけ)関わった僕のような人間としては、こういう場合どうすればいいのかよくわかりません。確かにこれまでプロの研究者たちは、面白い・興味を喚起しやすいものを書く努力をあまりしてこなかったと言うことはできます。それにまた経済などに比べて個人の特性や精神的な動きといった分野の研究は等閑視されてきたようにも思いますし。
 ただし学問である以上、「面白く書くために」研究分野を片寄らせたり、書きやすい対象を選り好みするというわけにもいきません。「歴史を知る」とは英雄たちの華々しい物語に親しむことだけではなく、非常に地味で光の当たりにくい「社会的背景」を把握することも含んでいるのです。その辺り、「歴史」一般に興味のある方には是非考えていただきたいと思います。

 …すいません、上手くまとまりませんです。でも、ま、そういうこと。

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(99.05.03)


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