補説17

ノヴゴロド公ウラジーミル


 この時のいきさつについて、『原初年代記』はちょっとしたエピソードを伝えています。
 スヴャトスラフがヤロポルクをキエフに、オレーグをドレヴリャーネの地に据え終わったとき、ノヴゴロドの人々がやって来て自分たちを治める公を派遣してくれるよう要求しました。ヤロポルクとオレーグはいずれも僻遠のノヴゴロドにまで行くことを嫌がったため、ノヴゴロド人たちはウラジーミルを請い、そして与えられたのです(この決定の影にはウラジーミルのおじドブルイニャの根回しもあったらしい)。つまりウラジーミルは地元住民からの要請によってノヴゴロド公の地位を得たのでした。

 兄弟の中で兄(姉)が何らかの要求をすげなく断り、末っ子がそれを承諾して結果的に幸運をつかむ話、というのは民話世界の中ではポピュラーなように思われます(「美女と野獣」パターン)。しかしノヴゴロドとウラジーミルの場合には周辺の事情をもっと探ってみる価値がありそうです。


 ノヴゴロド人が自らの統治者を招致する、というモチーフはあのリューリク伝説を思い出させます。実際にヴァリャーグが「招かれて」ルーシに来たのかは大いに疑問で、研究者の多くは武力による征服を想定しています。しかし仮にそうであったにせよ、リューリク伝説が「人々」による支配者の選択というノヴゴロドの伝統を反映している可能性はあるわけです。
 ウラジーミル公招致の話でも、ノヴゴロド人たちはスヴャトスラフに対して「もし公を与えなければ、我々は自分で他から公を見つけてくる」とまで言い切っています。ノヴゴロド人は自主的に公を選択する用意がある、そんな意識をうかがわせる台詞です。

 これは後に述べることになりますが、ノヴゴロドという街はルーシの歴史の中でもきわめてユニークな発展を遂げていきます。ここでは公は大きな力を持たず、代わりに民会(ヴェーチェ)と呼ばれる集会が公の任免を含めた種々の決定権を有しており、しばしばノヴゴロド「共和国」とすら呼ばれる独自の政体が作り上げられています。
 ノヴゴロドで民会の活動がはっきり記録にとどめられるのはもう少し後の時代ですが、ウラジーミル招致の物語は「公の選択」という伝統が早くから存在したことをうかがわせる、興味深い資料と言えます。

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(99.04.20)


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