補説16

ある母と子の肖像


 スヴャトスラフと母オリガの個性は一見して対照的なものに見えます。沈着冷静な政治家で国制の整備に多大な努力を払ったオリガに対し、スヴャトスラフ公は統治者としてよりも戦士としての属性を強く持ち、国外の戦場を主な活躍の舞台に選んでいます。またキリスト教に対する対応も全く異なり、自ら洗礼を受けて息子にも改宗をすすめるオリガに対し、スヴャトスラフはすげなくこれを断っています。「部下の戦士どもが受け入れていないものを自分一人が受け入れるわけにはいかない」という、いかにも「戦士の長」スヴャトスラフらしい理由からでした。


 その後の経過から見ればオリガの路線の方が時代を先取りしていたとも言えるわけですが、こうした「進歩的な親」対「保守的な子」という奇妙な対立は、歴史上何度か見られるものです。
 同じ時代、まさにこのキリスト教受け入れをめぐってブルガリアのボリスは異教への後戻りを望んだ長子ウラディミルと激しく衝突し、ついには彼を盲目にした上で廃嫡するという悲劇的な結末を迎えています(ちなみに三男のシメオンがボリスの後を継いだ)。一方ロシアにおいても、ずっと時代は下って17世紀、ピョートル大帝はロシアの近代化(西欧化)政策に従わない保守的な息子アレクセイを投獄し、死に至らしめています。
 もちろん進歩的といい保守的といい全ては後の世から見た評価にすぎません。しかし、少なくともその後の時代の「流れ」を作り出してきたのが常に「子の世代」であったわけではないことは興味深いと言えます。

 それでは、オリガとスヴャトスラフとの関係は完全に対立的なものであったのか。おそらくそうではなかったと思われます。

 確かに外征に多くの勢力を費やし、キエフに住むことさえ拒否しようとしたスヴャトスラフと、国内の敵対勢力の討伐及び統治システムの整備に重点を置いたオリガの政策とはあまり共通点を持っていないように思われます。
 しかしながら、スヴャトスラフの外征は、父イーゴリの時代までのそれと比べて非常に大規模・長期的なものでした。これは、オリガによる統治機構の整備(安定した税収入など)によって初めて可能になったものだとも言えます。他方、スヴャトスラフが連年繰り返した遠征の結果、対外戦を指揮したキエフの権威が高まり、また諸種族の動員を通じてルーシ国家としての統一感が作り出されたことも考える必要があります。
 つまり、統一国家としての成長によって大規模な戦争が可能になり、その戦争を通じて逆に国家の統一がすすめられたという意味において、両者の政策は互いに相補うものでありました。母子それぞれの活動は結果としてキエフ国家の成長に寄与していたわけです。もっとも、当事者の彼らがそれと意識していたかどうかはわかりませんが。

 また、原初年代記の記述によれば、この二人には親子としての深い絆のようなものが残っていたように思われます。オリガがキリスト教を受け入れることをすすめてスヴャトスラフがそれを断ったことは先に述べたとおりですが、続けて「そればかりか彼は母に腹を立てた」とさえ書かれています。にもかかわらずオリガは「自分の息子スヴャトスラフを愛していたので」、「昼も夜もずっと息子と民のために祈り、自分の息子が成年に達し一人前になるまで育てた」のでした。
 この記事が年代記作者による「敬虔な」オリガ賛美のために書かれたという側面は否定できないでしょう。とは言え、オリガが早くに父を亡くしたスヴャトスラフのために心を尽くし、懸命に我が子を育てたことも事実だと思います。


 さらにこのオリガが亡くなったとき、スヴャトスラフは家臣たちとともに「彼女を偲んで激しく泣き」き、母の遺言の通りにキリスト教式の埋葬を行ったのでした。スヴャトスラフにすれば「伝統を捨てて敵国の宗教にかぶれた」という程度にしか母のキリスト教信仰を理解していなかったのかもしれませんが、それでもオリガの最後の希望を容れてキリスト教徒としての埋葬を行ったところに、彼が偉大な母に対して抱いていた敬意と感謝の気持ちを見ることができます。スヴャトスラフが最後の南征に出発したのはオリガの最期を見取ってからのことでした。

 実のところ、彼らが互いに愛情を持っていたか否かがこの時代のルーシの歴史を見る上で重要なポイントになる、わけではないと思います。重要なのはオリガやスヴャトスラフががいかなる政策を採ったかで、彼らの人間的な関係云々は「どうでもいい」ことかもしれません。
 それでもやはり、この相異なる個性を持つ母と子が互いに愛情を感じていた(少なくとも年代記にはそう記録されている)という事実は、なにがしか我々の心をなごませてくれます。為政者グループ内における方針の不一致は、先に述べたボリスやピョートルのように陰惨な結末を迎えることが多いのですが、オリガとスヴャトスラフの場合は幸運にも例外であった、と言えます。

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(99.04.01)


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