補説15

ブルガリア盛衰記(2)


 シメオン帝の没後、後を継いだ無力なペタル(在位927~970)のもとでブルガリアの国力は急速に衰えていきます。原因の一つはシメオン自身にもありました。すなわち、もともと未熟であったブルガリアの経済は彼の行った多くの戦争に耐えきれなかったわけです。

 戦争を含め、およそ国力に過重な負担を強いる事業によって最も苦しめられるのが社会の下層に属する人々であることは言うまでもありません。ブルガリアの場合、支配階級がもともと外来出身者(ブルガール人)であったという事情も手伝って、支配層に対する一般民衆の不満は覆いがたいものがありました。いわゆるボゴミール派の台頭もそのひとつの表れと考えられます。
 ボゴミール派とは当時のバルカン半島を中心に流行を見せたキリスト教「異端」の一派であり、後に南フランスのカタリ派にも影響を与えたと信じられています。その考え方の根幹は世界を善と悪とに峻別する二元論的なもので、現世(物質世界)に対しては「悪の創りしもの」として非常に否定的な態度をとっていました。つまりこの世の全ての権威(国家・教会その他)を認めない、支配層にとっては無視し得ない危険思想になります。
 これほど現世否定的な思想が受け入れられた背景には、ブルガリアの大多数の人々にとって「この世」の生活が耐え難かったという事情があると思われます。


 ブルガリアの国力の衰退は、外からの災いをも引き起こしています。すなわち北方からのマジャール・ペチェネグなど遊牧民族の侵入です。まさに内憂外患と言うべきですが、おそらくはビザンツ帝国が彼らの侵入に手を貸したであろうと言われています。そしてブルガリア帝国にとって最終的な打撃となったのが、スヴャトスラフ率いるルーシの侵入でした。
 ビザンツ側の記録によれば、時の皇帝ニケフォロス2世の命を受けたカロキュラスという貴族がスヴャトスラフを説得し、ブルガリア攻撃を決意させたとされています。これはビザンツが得意とした「野蛮人同士を噛み合わせる」戦略の典型例と言えるでしょう。

 ところでロシアの研究者の中には、スヴャトスラフの遠征の目的はブルガリア征服ではなく、かえってそれをビザンツから救うことであったという意見があるようです。例えばБ.ルィバコフは、ビザンツの史料は反ロシア的プロパガンダに満ちており、スヴャトスラフの真の目的(ブルガリアの解放)を隠して逆に彼をブルガリア崩壊の当事者に仕立て上げた、と述べています。
 こうした見方の中には、ロシアをスラヴ民族の解放者とみなすナショナリスティックな傾向が多分に含まれているように思います。実際のところ、ルーシの側の史料(年代記など)にすらスヴャトスラフをブルガリアの解放者とする記述はなく、ルィバコフの説にあまり根拠はないようです。「スラヴ民族の連帯」をこの時代にまでさかのぼらせるのはアナクロニズムの産物と言えます。
 現実にはルーシの侵入、及びそれに続く(ブルガリアを戦場とした)ルーシとビザンツの激突によって、ブルガリア帝国は再起不能の打撃を受けたのでした。年老いたペタルは最終的な決着がつく前に没し、後を継いだボリス2世は971年に退位を余儀なくされます。栄えあるクルムの子孫はこうして王位を失い、ブルガリアはビザンツ領の一部とされ、ブルガリア教会もまたコンスタンティノープルの総主教座に吸収されてしまいました。

 もっとも多くのブルガリア人は故国の喪失を認めようとせず、ボリス退位の後にもビザンツの支配を受け入れませんでした。一地方官の子であったサムイルという人物は新たにブルガリアの皇帝を名乗り、ビザンツ軍を撃破してシメオンの帝国の大部分を回復しています。彼らの抵抗の拠点となったのは西部の山岳地帯で、特にビザンツが東方の対アラブ戦線に気をとられている間は有効な反撃を行うことができました。
 これに対し、ビザンツ側は皇帝バシレイオス2世(在位976~1025)のもとで新たな攻勢をかけます。有能かつ無慈悲な軍人であったバシレイオスはブルガリア征服に執念を燃やし、次第にサムイルを追いつめていきました。ビザンツ軍は1014年にマケドニアにおいて決定的な勝利を得るのですが、この時には一万五千のブルガリア兵が捕虜となっています。バシレイオスは彼らを100人ずつにわけ、そのうち99人を盲目にし、片目を容赦された残り一人の先導でサムイルのもとに帰らせるという残酷な命令を下しました。この恐ろしい行列が帰ってくるのを見たサムイルは驚きのあまり昏倒し、数日後に息をひきとったと言われています。
 サムイル没後もブルガリア人は抵抗を続けますが、次第にその基盤を失い、1018年にはビザンツに吸収されてしまいました。スヴャトスラフの侵入から約半世紀、ブルガリア国家は最終的に消滅してしまったわけです。

 しかしながらブルガリアは強靭な生命力を見せ、12世紀末にはビザンツの桎梏を振り払って独立を回復し、その後に起こったオスマン・トルコによる長期間の支配からも抜け出して今日に至っています。日本における地味なイメージとは裏腹に、非常に激しく変化に満ちた歴史を送っているというべきです。
 またブルガリアは正教圏では他のスラヴ国家に先駆けてキリスト教を受け入れ、その結果としてビザンツ文化を早くから受容し、さらに他の民族に普及しています。ルーシにおけるブルガリア文化の役割については今後触れていきたいと思います。

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(99.03.15)


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