補説14

ブルガリア盛衰記(1)


 ブルガリアという国は、おそらくヨーロッパ諸国の歴史に興味を持つ人にとっても地味な印象しか与えていないと思われます。ロシアを含めスラヴ世界にとっても重要な意義を持つブルガリアの歴史について、ここではその概要についてのみ触れたいと思います。


 ブルガリアの建国者となったブルガール族は、元来はトルコ系の遊牧民族で、カスピ海・黒海の北岸で遊牧生活を送っていました。7世紀、彼らはこの地方で台頭しつつあったハザールの圧力により分裂することになります。一つのグループはヴォルガ川流域にとどまり、ここでハザールの宗主権のもとに国家を形成しました。彼らは通常ヴォルガ・ブルガールと呼ばれ、ルーシの歴史とも密接な関わりを持っていきます。
 もう一つのグループはアスパルフという名の指導者(汗)に率いられ、はるか西の彼方、バルカン半島はドナウ下流のデルタ地域にまで長征を行い、在来のスラヴ人を征服してこの地に定着するようになります(680年頃)。すなわち今日にまで伝わるブルガリア国家の起源がこれです。
 先に述べたようにブルガール人自身はトルコ系でしたが、その数は比較的少なく、数的に優勢な臣民・スラヴ族に急速に同化していきました。同じく遊牧民による征服国家であったハンガリー(マジャール族)が固有の言語などを最後まで守り通したのに対し、ブルガールは対照的であったとも言えます。この辺り、ルーシにおけるヴァリャーギと似ているかもしれません。

 当然のことながら、ビザンツ帝国は自らの勢力圏内に定住したこの「蛮族」の存在を快く思わず何度か対ブルガリア遠征を試みますが、811年にはクルム汗率いるブルガリア軍の反撃にあって皇帝ニケフォロス1世が落命するという失態まで演じ、この新興国家の存在を認めることになります。そこで帝国はブルガリアを自らの文化圏につなぎ止める政策に転じ、具体的にはそれはブルガリアのキリスト教化となって現れました。
 864年、ビザンツはブルガリアに対して軍事的な圧力をかけ、ボリス汗(在位852~889)をはじめとするブルガリア人の改宗とビザンツ教会の監督下になるブルガリア教会の設立を要求します。ボリスはこれを承諾するのですが、同時にビザンツのライバルであったローマ(カトリック)教会に接近するという外交カードを駆使し、結局ブルガリア教会の実質的な自治権を勝ち取っています。ともあれ、ボリスのもとでブルガリアはキリスト教国として生まれ変わり、また教会を通じてビザンツの文化を積極的に取り入れていきました。

 ボリスの子シメオン(在位893~927)の時代、ブルガリアは国際舞台に華々しく躍り出ることになります。ビザンツの人質としてコンスタンティノープルで青年時代を送ったシメオンは、ギリシア仕込みの教養人であると同時に疲れを知らぬ軍事指導者でもあり、敵に回すと恐るべき存在でした。日本ではあまりその名を知られていませんが、中世ヨーロッパにおける最も興味深い人物の一人であろうとは思われます。
 シメオンもボリスと同じくキリスト教化・ギリシア文化受け入れを推進しますが、政治的には対ビザンツ協調を止め、はっきりとこれに敵対していきます。ビザンツは東方のイスラム勢力とブルガリアとの二正面作戦を強いられたこともあり、シメオンの前に敗北を重ね、領土の割譲や貢納金などの譲歩を余儀なくされます。

 一連の成功によって自らの力を確信したシメオンは、それ以上のものを望むようになります。ビザンツ皇帝の持っていた「ローマ人の皇帝」という称号を得ること ― これこそがシメオンの最終的な目標でした。ブルガリアはすでにビザンツ世界の一員としてキリスト教信仰とギリシア文化の二つを受け入れており、彼の要求も全く根拠のないものではなかったわけです。
 しかしシメオンは最後のハードルを越えることができませんでした。ブルガリア軍は野戦においては相変わらず無敵でしたが、コンスタンティノープルの堅固な城壁を打ち破ることができず、麾下の海軍の未熟さと相まって帝都を力ずくでこじ開けるのには失敗したのです。自分の一族から「ローマ人の皇帝」を出すために娘を皇帝(あのコンスタンティノス7世)と結婚させるというプランもうまくいかず、シメオンの大計画は最終的に失敗に帰したと言えます。
 ただし彼は妥協策としてビザンツから(単なる)「皇帝」という称号を認められ、ブルガリアの教会をビザンツ教会から独立させることにも成功します。また自らも高い教養の持ち主であったシメオンのもとで、ブルガリアは文化的にも発展し、ルーシなど他のスラヴ人国家にも大きな影響を与えました。シメオンの治世はまさにブルガリア帝国の黄金時代だったわけです。

 最近補説が長くなり気味ですね。すいません。この続きはその2、ということで。

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(99.03.10)


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