補説11
戦うエリート
�b初期キエフ・ルーシにおける従士団�b
本文でも述べたように、この時代のルーシにとっては戦いが大きな意味を持っていました。ここでは戦いの担い手の中でもとりわけ重要な存在であるエリート戦士層、従士団について触れてみたいと思います。
ある定義によれば、従士団とは「主君の統率下にある自由人男子からなる戦士共同体」となります(※)。西洋における騎士、日本の武士など封建時代の戦士階級とは異なり、従士団はあくまで自発的に王の周りに集結し、王の財産をもって養われ、戦時には王の指揮下で戦うという性格を持っていました。つまり封建騎士の身分的閉鎖性、また(土地所有を基盤とした)経済的な意味での自立性を欠いていたわけです。
ゲルマン・ケルトの従士制はタキトゥス『ゲルマーニア』などで知られ、また先に述べた西欧封建騎士の原型になったことで有名ですが、ルーシの従士団は比較的マイナーな(?)存在だと思われます。しかし西方の同僚と同じく、ルーシの従士たちも歴史の中で重要な役割を果たしてきました。
ロシア語で従士団は「ドルジーナ」(дружина)と呼ばれます。語源としてはゲルマン語の従士団《druhti》から変化したという説、あるいは友人、仲間を意味するスラヴ語「ドルーグ」(друг)由来説がありますが、後者の説の方が説得的であると思われます。なぜなら「ドルジーナ」は時に兵士集団一般を指して使用されることがあり、この場合戦場における仲間集団、「戦友」の集まりを指す語と解するのが適当であるからです。しかしこの言葉が最も広く使われているのは、やはり何らかの指導者につき従う「従士」の集団として、です。
実際にはより早くから存在していたとは思われますが、ロシアの年代記に従士団が現れ始めるのはイーゴリ公の時代からで、その子スヴャトスラフ、孫のウラジーミルの頃になると従士団についての言及は非常に多くなります。国内の反抗的な諸種族に対する「懲罰」、ビザンツなど先進的な文明世界への略奪的遠征、また南方ステップ地帯の遊牧民族との戦い等々、彼らの治世はいずれも戦いに明け暮れ、公の職務はまず戦争をもってその第一とするがごとき有り様でした。こうした時代背景から、従士団が活躍する舞台は十分に整っていたと言えます。
この当時の従士団がどのような出自を持っていたかについては、あまりはっきりした記録はありません。しかし先にも述べたように、従士団というのは閉鎖的な「階級」ではなく、その意志があれば、そして知恵と力さえあれば参加が可能な集団であったようです。例えば『原初年代記』において、ウラジーミル公のもとでペチェネギの勇士と一騎打ちをし、その功績によって高い身分を得る若者が登場しますが、彼は一介の革なめし屋の息子にすぎませんでした。
またキエフ時代を舞台にした「ブィリーナ」と呼ばれる英雄叙事詩がありますが、そのヒーローたち(公に仕える勇士たち)の中には農民出身の者が少なくありません。これもキエフ時代の現実の反映であろうと考えられています(こちらを参照)。
つまり従士団というのは本質的に身分制確立以前の産物で、社会の流動性を体現する存在であったと言えます。ただし、例えば奴隷から従士団に入って社会的上昇を遂げることは考えにくく、あくまで自由人という枠組みの中で、の話ですが。
では従士たちとその主君である公との関係はどうだったのでしょうか。後のモスクワ大公国時代にみられるような「絶対的な君主」対「忠実な奴隷」という構図は、少なくとも初期キエフ時代には現れていません。公は従士団のリーダーであると同時にその戦友的存在で、同輩中の第一人者という性格を色濃く持っていました。本文で述べたように、とりわけスヴャトスラフ公についての記録の中には「戦士たちに先駆けて戦う公」の姿が随所で見られます。この時代の公には、必要に応じてもっとも知勇に優れた者を選んだであろう原初的なリーダーの面影がいまだ残っていたと言えます。
また年代記には、スヴャトスラフやウラジーミルなどが重要なことがらについて従士団に「相談した」という記述が多く見られます。彼らはそれほど一心同体であったとも、また公といえども従士たちの意向を無視しては行動し得なかったとも言えるわけです。
従ってこの当時の公と従士団の関係には互酬的な側面もみられました。公は戦場において従士たちの勇戦を期待する一方、彼らの働きに対しては充分な報酬を与える必要があったわけです。この事情の一端については、すでに雑話で述べたとおりです。
フランク王国など西方の同僚たちと同じく、時代が進むに連れてルーシの従士団たちは細分化し、その上層は公から一定程度自立した、「貴族」と呼んだ方が正確な存在になっていきます。そのような従士団の変化についてはまた述べる機会があるでしょう。
(99.02.08)
※ハンス・K・シュルツェ著、千葉徳夫他訳『西欧中世史事典』(ミネルヴァ書房、1997年)p.26
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