補説10
2つの教会のはざまで
キリスト教の組織として我々が思い浮かべるのは、多くの場合カトリックかプロテスタント教会だと思われます。一方でロシアが属している東方正教会について具体的なイメージを持つ人は少ないのではないでしょうか。実際、キリスト教についての手軽な入門書などでも正教会はカトリックからの分派集団としてしか扱われていない場合があります。
遺憾ながらそれぞれの教会の本質について詳述できるほどの知識はないので、ここではカトリックと正教会の初期の歴史について見てみたいと思います。ほんの上っ面だけ。
紆余曲折の末にキリスト教を国教と定めたローマ帝国では、その版図にある5つの巨大都市がキリスト教会の中枢となっていきました。すなわちローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、イェルサレム、そしてアレクサンドリアです。
とりわけ前二者の教会は、都市そのものの政治的・経済的な力も相まって大きな力を持つようになります。ローマ教会は使徒ペテロの衣鉢を継ぐものとして特別な地位を主張し、一方コンスタンティノープルは「皇帝のおひざ元」として強大な力を持っていました。やがてこの二つの教会は、カトリックと正教のそれぞれの中心となって対立を深めていきます。
…と、この辺りまでは世界史の教科書などでおなじみですね。本当はもっと深く突っ込んで教義面での対立などに言及するべきなのかもしれませんが、諸事情によりここでは割愛。
皮肉なことに、両教会とも自己を「正統」と見なし、互いに相手を「分離していった」と非難する点では共通しています。それぞれが独自の伝統の中で発展していったために教義面・典礼の方法などの差異が生じ、時代が下るにつれて溝は大きくなっていきました。そのため同じキリスト教徒でありながら、後には戦いも辞さずという非妥協的な対立にまで陥ることになります。特に1204年、イスラム教徒と戦うために編成されたカトリックの「十字軍」が正教の大本山であるコンスタンティノープルを襲撃して略奪の限りを尽くした事件は、両教会の対立の悲劇的な帰結と言えるものでした。
ルーシがキリスト教に接近していった10世紀後半にはいまだ決定的な分裂は起こっていなかったものの、東西教会の対立はかなり厳しくなっていました。従って新たにキリスト教に改宗しようというルーシに対しては、両教会とも自らの勢力圏に引き込むことを望んでいたと思われます。実際、本論で述べたようにブルガリアでも両勢力の「綱引き」が行われ、最終的なキリスト教受け入れまで複雑な経過をたどることになりました。
ただしルーシとの地理的な近さからといい経済的・政治的な結びつきといい、状況がビザンツ側に圧倒的に有利であったことは否めません。勝負は最初から見えていたとも言えます。そこを敢えてカトリックに接近したところに、オリガの冷静さと計算深さがうかがえます。(99.01.18)
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