補説9

イーゴリの対ビザンツ条約


 945年、イーゴリ公は「以前の平和を樹立するために」ビザンツから送られてきた使者を受け入れ、条約を結びました。これによって、ルーシのコンスタンティノープル攻撃に端を発した戦争状態は終わり、両国の関係は再びノーマルなものになります。
 この条約文をかつてオレーグ公が結んだとされるもう一つの対ビザンツ条約(911年)と比べると、なかなか興味深い事実が浮かび上がってきます。以下、簡単に書き出すことにします。

・使者の名前

 オレーグの条約にはルーシ側の使者として、明らかにノルマン起源の人名が並べられています。例えばカルル、ファルロフ、ヴェルムドなどです。この時代にはまだスカンディナヴィアからやって来たヴァリャーギたちがルーシ国家の中枢にいた証拠と言えます。
 一方945年の条約になると、その使者の中にはノルマン名に混じってスラヴ起源と思われる名も見られます(シンコ、ボリチなど)。すでに土着のスラヴ人が支配層の中に入り込んだり、またノルマン系の支配層とスラヴ人との混血が進んでいったりしたのだと思われます。キエフ政権における民族構成の変化を物語る重要な史料と言えるでしょう。

・「光輝ある公たち」の行方

 使者については上で見たとおりですが、それでは条約は誰の名において結ばれているのでしょうか。当然ながら911年ではオレーグ、945年ではイーゴリの名が挙げられているのですが、条約をよく読むと彼ら以外にもルーシ側の代表がいたようです。
 911年の条約文には、ルーシの「大公」オレーグの他に「光輝ある公たち」と呼ばれる人々が登場します。第2条には彼ら「光輝ある公たち」とその配下の者はグレキの皇帝と和平を保つ、とされていて、あたかも彼らがこの条約の主役であるかのような印象を受けます。
 ここから判断すると、オレーグといえどルーシの地の全能の支配者ではなく、その下にある程度の権力を持つ「公たち」がいたと考えられます。おそらくはキエフの支配下にある各地の種族の支配者が、この「光輝ある公たち」にあたるのでしょう。実際、年代記でもこうした種族の指導者たちを「公」と読んでいる箇所が見受けられます。
 一方、945年の条約にもイーゴリ以外に「公たち」が現れていますが、興味深いことに彼らはすでに「光輝ある」とは呼ばれていません。この変化は様々に解釈できるでしょうが、キエフ「大公」の権力の強化と各種族の自立性の弱まりによって説明することもできると思います。それぞれの種族共同体を解体しキエフの権力の下に組み込んでいくためには、どうしても従前の種族支配層の力を弱める必要がありました。条約における「公たち」の扱いの変化もその表れだと考えられます。
 華々しい活躍を見せたオレーグに比べ、ビザンツ遠征に失敗し、最後はドレヴリャーネの反撃を食らって討ち取られてしまうイーゴリにはどうしてもマイナスのイメージがつきまといます。しかしキエフの力を強める政策においては、着実に前進していたと見てもいいでしょう。

・神への誓約

 こうして結ばれた条約は、それに対する違反を防ぐために神への誓約でもって締めくくられる必要がありました。しかしながらこの当時はまだルーシとビザンツとは宗教を異にしていたため、それぞれが違う神に誓いをたてていました。
 ビザンツはローマ帝国時代からキリスト教を国教としており、当然ながら誓約の対象もキリスト教の神でした。一方ルーシは昔ながらの多神教信仰で、雷神ペルーン、家畜の神ヴォロスなどが主神格として知られています。従ってイーゴリの条約の中でもルーシはペルーンへの誓いを行っているのですが、同時に「我々の中で洗礼を受けている者は」教会や十字架にかけて条約の遵守を誓う、とされている点が注目されます。
 この文言はオレーグの条約の中には見あたりません。おそらくは度重なるビザンツ帝国との接触の結果、ルーシでも多神教信仰を捨ててキリスト教に改宗する者が増えてきたためにこのような措置がとられたのでしょう。また洗礼を受けていた者がキエフの聖イリヤ教会で誓いをたてた、という年代記の記事は、ルーシのキリスト教徒がすでに教会すら持っていたことを物語っています。数十年後のウラジーミル公によるキリスト教受け入れも、決して突発的なものではなかったのです。

 ノルマン人のスラヴ化、諸種族の解体、あるいはキリスト教徒の増加など、いずれもその後のルーシ国家の歩みを暗示するものでした。イーゴリ時代にはすでに、水面下ではあれこうした変化が起きていたのだと考えられます。

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(99.01.08)


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