補説8

「巡回徴貢」の世界


 文字ばかりで解説してもわかりにくい、というわけでまたもマップ様にお出ましを願うことになりました。今回はコンスタンティノス7世の『帝国統治論』に描かれた、キエフ公の巡回徴貢についてです。

 まずキエフから北東方向に広がった円ですが、これは『帝国統治論』においてキエフ公とその一行が冬の間巡回して回るとされている地域です。つまり、貢納者として名が挙げられている諸種族の住む領域がだいたいこの円の中に収まる、ということです。
 意外に狭いと思われるかもしれませんが、これはあくまで公が直接巡回して歩いた範囲であって、ルーシ国家の領域そのものではありませんのでご注意。ノヴゴロドなどの主要な拠点にはおそらく公の代官が派遣されていたと考えられます。
 また巡回する場所がキエフから北に偏しているのが一見してわかると思います。これは南方の草原(ステップ)地域が遊牧民の勢力圏であり、ルーシ国家の力が及ばなかったことの表れでしょう。それに対して北方には鬱蒼たる大森林が広がり、遊牧民の攻撃を阻む頼もしい防壁となっていました。「草原の世界」がロシアに組み込まれていくのははるか後のことです。

 これに関連して、コンスタンティノスは興味深い情報を残しています。冬季の巡回徴貢と夏期のコンスタンティノープル貿易がルーシの生活サイクルであったことは本論に述べた通りですが、そのコンスタンティノープル行において、ドニエプルの下流付近が最も危険な場所でした。なぜならこの近辺には早瀬が多く、わざわざ船を陸地に引きずりあげて運ぶ必要があり、この時ペチェネグ人の襲撃と略奪を受けることがしばしばあったからです。
 ペチェネグというのはトルコ系の民族で、当時ハザールにかわって南ロシア草原の覇権を握りつつあった精強な遊牧民でした。ルーシは船の運搬と戦闘という「二つの仕事を同時に行うことのできぬ故に」容易に打ち負かされた、と皇帝は伝えています。「南船北馬」といわれた中国とは逆に、ルーシの南方は誇り高き遊牧民の世界であったことがわかります。

 上の地図でドニエプルの下流の一部を赤で塗ってありますが、その辺りが危険な早瀬のあった場所だと考えて下さい。大きく東に湾曲している部分です。ちなみに現在ではダムの建設によって、かつての早瀬はすべて水底に沈んでしまったようです。

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(98.12.23)


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