補説7

リューリク家について


 有名なロマノフ家が登場するまでの約700年、ロシア国家の支配者として君臨し続けたのが「リューリク朝」です。今回はこのリューリク家について簡単に述べてみましょう。
 御存知のことと思いますが、「リューリク」とは姓ではなく、この一族の始祖とされる人物の名であります。従ってロシア語で「リューリク家」を指す言葉は「リューリコヴィチ」(Рюликовичи)となりますが、これは「リューリクの子ら」という意味です。
 ただし本論で述べた如くリューリクその人の実在性は甚だ不確かで、史料で確認される最初のリューリク家の成員はイーゴリになります。従って、正確にいうならばリューリク家とは「リューリクの子であると仮定されるところのイーゴリを共通の始祖とする一族」とでも言うべきでしょうか(何だか「政治的に正しいおとぎ話」みたいな表現だ…)。

 以前の補説でもとり上げたようにキエフ・ルーシの全期間を通じて「公」の称号はリューリク家に独占されていました。つまりルーシを支配する権利はリューリク家だけのもの、というわけです。
 この思想が認められるのはかなり初期のことのようで、『原初年代記』882年のオレーグによるキエフ占領の記事の中にすでにそれが現れています。この時オレーグはキエフにいたアスコルドとジルをだまし討ちにするのですが、2人に対しては「お前たちは公ではなく、公の一族でさえもない」と言い、またリューリクの遺児であるイーゴリを奉じることでキエフ占拠を正当化しているのです。少なくともこの記事の記録者は、「公」はリューリク家の成員に限られるという思想を持っていたことになります(ちなみにオレーグ自身はリューリクの子ではないものの、その一族とされている)。

 ところでリューリク家の成員には子沢山が多かったのですが、この事実はルーシにとってマイナスの側面を持っていました。と言うのもこの時代にはまだ一子相続制度が確立しておらず、公の位やある地域の支配権の継承をめぐって、しばしば同族間での血生臭い戦いが繰り返されたからです。兄と弟、叔父と甥、またそれ以上に等身の離れた親族同士が合従連衡を繰り返しては相争い、ルーシ国家の一体性は損なわれていきました。こうした分裂状態が、モンゴル軍の侵入に対してルーシ諸公が有効に対処できなかった原因の一つともなったのです。

 さて、「タタールのくびき」と呼ばれるモンゴル支配の中で、以前はとるに足らぬ地方都市であったモスクワが徐々に力を蓄えていきました。モスクワ大公家はリューリク一族の中でもそれほど高い家柄ではなかったのですが、巧みな外交手段によって諸公を抑え、全ルーシの支配者となっていきます。
 この時期、拡散しすぎた諸公の中には新しく名字を名乗るものが現れるようになります。これは日本でいう「臣籍降下」に近いもので、モスクワ大公が依然として姓を持たず「公の一族」として支配していたのに対し、一ランク下の貴族階級に自らを位置づけることを意味していました。つまりは増えすぎたリューリク家の成員が今度は減少していったわけです。後のロシア帝国時代にまで名を残す大貴族たち ─ ゴリーツィン家、ドルゴルーキー家などはこうして誕生した家門でした。

 最終的にリューリク家(モスクワ大公家)が断絶するのは1598年のことで、更にロシア史上未曾有の大混乱の時代を経て、1613年に非リューリク系のミハイル・ロマノフがツァーリの位につくことになります。これが「ロマノフ朝」の始まりです。
 ロマノフ家は直接リューリク家の血を引くものではなかったにせよ、イヴァン雷帝の妻となったアナスタシヤをその一族から出しており、血統上でリューリク家に連なる要素を持っていました。それだけがミハイルのツァーリ選出の要因となったわけではないのですが、しかしリューリク家とのつながりが有利に働いたことは確かでしょう。この一族がロシア史に与えた影響は、その断絶の後もしばらく続いたことになります。

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(98.12.11)


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