補説6

ノルマン論争(その2)


 ところでノルマン問題を困難なものにしているのは、史料自体の少なさと確実性のなさ(伝説性)です。とにかくルーシというコトバの起源すらよく分かっていないのが実状なのです。
 『原初年代記』にはリューリクが「ルーシ」を率いてきた、とあります。ここから当然「ルーシ」とはノルマンの一氏族名である、と考えることもできるのですが、しかしながら当時のノルマンの中に「ルーシ」という名の種族が存在したことを示す確実な史料はありません。これが自称なのかそれとも他称であったのか、なぜこの呼び名が東スラヴ全体を指すものとして急速に広まったか、等々、分からないことだらけであると言えます。。
 当然のことながら、ノルマン論者は「ルーシ」という名称のノルマン起源を主張する一方、アンチ・ノルマンの人々はそれを否定する傾向にあります。もちろん名の由来がそのまま国家の起源を表しているわけではありませんが、一種の象徴的意味あいを持つものとして考えられている節があります。

 ノルマン説にとって有利なのは、ビザンツ・アラブなど外国の史料において、「ルーシ人」と「スラヴ人」とをわけて記述している場合が多いことです。これをもって「ルーシ」のスラヴ起源説は否定できる、というわけです。
 より注目されているのは、西方のフランク史料である『ベルタン年代記』の情報です。それによれば、839年、ルードヴィヒ敬虔王の宮廷にビザンツからの使者がやって来たのですが、その中に「ロス」(Rhos)という種族の者がいました。ルードヴィヒが調べさせると、彼らは実はスウェーデン人であった、ということです。この記事を「ルーシ=ノルマン起源」の決定打と考える人が多いのもうなずけると思います。

 このように史料面で反ノルマン説は押され気味のようですが、しかし彼らに有利な材料がないわけではありません。『原初年代記』がルーシをリューリクとともに来た外来者としていることは既述の通りですが、しかし同時にノルマンには「ヴァリャーグ」という名も与えられています。年代記において「ヴァリャーグ」と「ルーシ」がしばしば平行して現れることから、この二つを別の存在と考えることもできるのです。
 更に年代記を細かく見ていくと、「ルーシ」はどちらかといえば南方に結びつけられていることがわかります。すなわち、『原初年代記』ではノルマン人たちの故郷であるバルト海が「ヴァリャーグの海」と呼ばれているのに対し、黒海が「ルーシの海」とされているのです。また時代が下っていくと、キエフ周辺の狭い地域だけを指して「ルーシ」と呼ぶ用法も目につくようになります。例えば北方のノヴゴロドからキエフに行く場合、「ルーシへ行く」という具合です。
 そこで反ノルマン論者たちは、「ルーシ」という言葉は南方のキエフ周辺で成立したものであるとし、具体的にはロシ川(ドニエプル支流)付近にいたスラヴ人の連合体がこの名を用い始めた、と考えているのです。

 このように、「ルーシ」という名の由来についての両者の主張は真っ向から対立して譲ることを知りません。ただ史料的にはノルマン説の方に分があり、それに比べて反ノルマン論者の見解は多少強引に見えますが、これとて決定的なものとは言えないと思います。ルーシ=ノルマン、あるいはルーシ=スラヴを証明する明白な証拠がない以上、どちらの説も決め手を欠くのはやむを得ないでしょう。

 ルーシという名称はノルマン起源である可能性が高いし、またキエフ国家成立に対してノルマン人が一定の役割を果たしたことは否定できないが、一方で彼らがゼロからすべてを作り出したのではなく、在地のスラヴ勢力がすでにある程度の土台を築いていたことも無視できない…今のところはこれくらいの、どちらかといえば無難なことしか言えないのではないかと思われます。実際、スラヴ・ノルマンのどちらか一方だけをルーシの建設者とし、もう一方を無視乃至軽視するのは偏狭にすぎると言えるでしょう。本論を読めば、ルーシ国家の形成が何か一つだけのインパクトでできあがるような単純なものではないことが分かっていただけるかと思います。
 いずれにせよ、ナショナリズムや政治的枠組みから離れ、純粋に歴史学の立場からこの問題を議論することが重要なのです。

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(98.12.06)



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