補説5

ノルマン論争(その1)


 日本ではほとんど知られていないことですが、キエフ・ルーシのはじまりに際してノルマン人がいかなる役割を果たしたか、については、歴史学界でもかなり激しい論争がありました。いや、正確にはまだ「ある」と言った方がいいかもしれません。

 本論で書いたように、『原初年代記』においてはルーシ国家の基礎を築いたのはノルマン人であり、そもそも「ルーシ」という名称すら外来のものになります。この情報を事実に近いものと見る人々は通常「ノルマン派」と呼ばれ、一方否定する立場は「反ノルマン派」と呼ばれてきました。
 ノルマン派の主張は比較的分かりやすいと思います。ノルマン到来以前のロシアは種族ごとに分裂した未組織状態であり、強力なノルマン人のイニシアティブのもとでやっと国家としての体裁を整えた。ただしノルマン支配層は数が少なく、その後急速にスラヴ人に同化していった。大体こんなところでしょう。この説は革命前ロシアの学界で広く支持され、また西ヨーロッパその他外国でも受け入れられてきました。世界史の教科書などを見るに、今の日本でもこちらの考え方が一般的なのようです(この分野に興味を持つ人自体が少ないため、「常識となっている」と言うのははばかられるが)。

 それではアンチ・ノルマン派は何をもってルーシの起源と見たのでしょうか?一言でいうなら、それは外来ノルマンの支配を受けていた在地の人々になります。つまり、今日のロシア人の直接の祖先であるスラヴ人に他ならないのです。
 実際のところ、『原初年代記』はヴァリャーギ(ノルマン人)の到来をもってルーシのはじまりであると記す一方、スラヴ人諸種族の動向についても少なからず情報を残しています。とりわけ、キエフの建設者とされるポリャーネ族の扱いは特別で、年代記作者もこの種族にはある種の敬意を払っていたかのようです。
 このポリャーネ族は反ノルマンの「希望の星」であるとも言えます。つまりヴァリャーギの到来以前にすでに、キエフを中心としたスラヴ人(ポリャーネ)の政治的なまとまりができていて、ノルマン到来はその上っ面をかすったに過ぎない、と主張することができるからです。
 ノルマン人は単に武力においてのみ優れていた外来者にすぎず、スラヴ人によるルーシ国家建設にはほとんど寄与しなかった。彼らの影響は言われているほど大きくはなく、ルーシを作り上げたのは名実ともにロシア人(スラヴ人)である…反ノルマン説の骨子はこんな具合です。
 

 こうした反ノルマン説は、特にソ連の歴史学界において熱心に主張されてきました。ロシア国家の起源をロシア人自身(つまりスラヴ人)に求める歴史観を支持したくなるのは分かりますが、しかし歴史学の範疇にナショナリズムが入り込むことで、この問題の解決が難しくなったとも言えます。特にソヴィエト時代には、ノルマン説=似非学問、悪質な反ソヴィエト宣伝という決め付けがまかり通っており、冷静な議論は困難な状況にありました。
 また、ソ連の歴史家がノルマン説を攻撃するについては別の理由もありました。ソヴィエト時代に公式のものとされていたマルクス主義史観によれば、歴史は内的な発展の法則、つまり物質的な生産力の推移に応じて変化するもので、表面的な変化はあまり問題とすべきものではありませんでした。従って、ルーシ国家の成立もノルマンの征服といった表面的な事件ではなく、あくまでスラヴ人社会の発展、生産力の高まりの上に起こり得るべきものとされたのです。
 このように、ソ連の歴史学界におけるノルマン論争は、ナショナリズムのみならずイデオロギー的側面においてもある種の「傾向」が感じられるのは否定できないと言えます。当然のことながら歴史教育においてもノルマン説はまったく取り上げられませんでした。例えばある時ソ連の歴史教科書を邦訳で見たところ、ルーシの始まりでは何とリューリクについて完全に無視するという大胆な処理を行っていて度肝を抜かれたことがあります。国家が歴史観を管理していたソヴィエト時代には当然であったのかもしれませんが。

 一方で、例えばナチス時代のドイツでは、ノルマン説がナショナリスティックな方向に歪められて利用されていました。つまり、もともとスラヴ人ごときに国家形成の能力はなく、ゲルマンの一派であるノルマン人がロシアにも国家を持つという恵みを与えてやったのだ、というわけです。まさに歴史学の悪用というべきです。

 このように、純粋に歴史学的な範囲を超えて、政治的な立場が絡んでくるところにノルマン論争特有の困難さがあると言えるのです。もっとも、ノルマン問題に限らず歴史学が「政治的な思惑」の故にいじくり回されるのは珍しいことでもないのですが。

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(98.11.29)


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