補説4

「公」という称号について


 ロシアの支配者を指す称号としては「ツァーリ」(царь)が一般に有名ですが、周知の通りこれは古代ローマの「カエサル」が変化したものです。ただしロシア人が「ツァーリ」を使い始めるのは15世紀以降のことで、キエフ・ルーシを含むそれ以前の時代、ロシアの君主は「」(クニャージ князь)と呼ばれていました。

 「クニャージ」という名詞は英語の「キング」、ドイツ語の「ケーニヒ」と同じ語源を持っています。つまりは「人の上に立つ者」を意味する言葉です。
 従ってこれを「王」と訳すこともできるし、実際に同時代の西欧史料ではキエフ公を「ルーシの王」(Rex gentis Russorum)と呼んでいるものもあります。しかし「クニャージ」が近代の爵位制度の中で「公爵」を示す言葉になっていること、またフランスやイギリスなど外国の王を指すのに別の言葉(コローリ король)があること、などから、やはり「クニャージ」は「公」と解されるべきでしょう。厄介なのが日本語訳で、「公」の他に時として「候」も見受けられます。一般的には「公」が通用しているようで、このロシア史ページでもこちらを使用しているのですが、これだと「パブリックな」という意味での「公」と混同する可能性もあります(例えば「公権力」なんかがそうですね)。訳語の問題なんぞは枝葉末節なようでいて、たまに我々の足をすくったりするものなので。

 ところで「公」という称号はルーシ以外の支配者に対しても使われていました。例えばルーシと何度も激闘を繰り広げたペチェネグ人・ポロヴェツ人についても、その指導者は年代記の中で「公」と呼ばれています。彼らが遊牧民に伝統的な「可汗」の称号を持っていたのにもかかわらず、です。つまり「クニャージ」はルーシ民族に特有の、排他的な称号であるとは考えられていなかったようです。
 ただしルーシの内部においては、「公」の称号を帯びるのはリューリクの子孫に限られていました。最初期の種族公を除いてリューリク家以外の者が公を名乗った例はたった一つしかなく、しかもほんの一時的なものでした。古代・中世で多くの国がそうであったように、ルーシでもまた支配者の血統が何よりも重んじられていたわけです。
 キエフ時代も後半になるとリューリク家の成員は非常に増え、従って公を名乗る者も掃いて捨てるほどいたのですが、それでもこの血統による壁が崩されることはありませんでした。しかし時代が下って普通の公よりも一ランク上の「大公」という称号(モスクワ大公など)が定着すると、非リューリク系の「公」も現れるようになります。この「大公」は最終的に「ツァーリ」が現れるまで、ルーシ/ロシアで最高の権力者を示す言葉であり続けました。
 そしてピョートル大帝の近代化(西欧化)政策が始まると、「クニャージ」は西欧的な爵位制度の頂点である「公爵」として、新たな体制に組み入れられていきます。しかし下級の伯爵(グラーフ)や男爵(バロン)などが輸入語でまかなわれたのに対し、最高位の公爵に旧来のクニャージが使われたことは興味深いと言えるでしょう。やはりこの称号は、ロシア人にとって一種独特の重要な意味合いを持っていたようです。

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(98.11.25)


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