補説3

ヴァリャーギからグレキへの道


 ノルマン人たちがいかにしてコンスタンティノープルを目指したか、ちょっとした地図を利用して見ていただくことにしましょう。大体こんな感じです。

 …多少線が歪みましたが。赤いラインがその主なルートになります。
 まずバルト海からヴォルホフ川(ノヴゴロドがそのほとりにある)を南に下り、「連水陸路」と呼ばれる場所で船を陸地に引き揚げ、南向きのドニエプル川に乗り換えます。あとはひたすら川を下り、黒海に出てコンスタンティノープルを目指すという寸法でした。
 ロシアの年代記では、このルートは「ヴァリャーギからグレキへの道」と呼ばれています。本文でも述べたように「ヴァリャーギ」(複数形、単数ではヴァリャーグ)とはノルマン人のことですが、「グレキ」というのはギリシア人を意味しています。当時のロシア人は、ビザンツ帝国の住人をこう呼んでいました。

 ただし上に挙げたルートだけが「道」のすべてというわけではありませんで、他の川を利用した交通路も存在していました。例えば地図に見える西ドヴィナ川も、バルトからの入り口として頻繁に利用されていたのです。その上流からドニエプル水系にさえ移ってしまえば、あとは同じ方法でコンスタンティノープルまで行き着くことができました。これはひとえに、流れが緩やかで航行に適する河川が網の目のように張り巡らされ、また分水嶺が峻険な山地とはなっていないため船を陸路で別の川まで容易に移すことができるという、ロシアの地理的な特性の賜物だったのです。
 また冒険心旺盛なノルマン人たちは、より東方にも目を向けていました。地図上、青い線で示されているルートがそれです。ヴォルガを下った先はカスピ海であり、彼らは更にその先、イスラム世界の中心であるバグダードを目指したのでした。対イスラム交易もビザンツに劣らぬほど盛んで、その名残として、今でもバルト地域でイスラム銀貨が発掘されることがあります。

 ヴァリャーグたちは主に商人としてコンスタンティノープルに現れたのですが、それでは彼らはいったい何を商品として運んできたのでしょうか?まず高価な毛皮、そして蜂蜜や蝋が挙げられます。品目から想像できると思いますが、これらは森の住人であるスラヴ人たちから徴収したものでした。特に毛皮はロシアの代表的な輸出品目となり、はるか後代に至るまで珍重されています。また時にはスラヴ人自身が商品として、つまり奴隷としてコンスタンティノープルへ連れ去られることもありました。
 要するに、「道」を往来していたノルマン人たちは、行きがけの駄賃というわけでもないでしょうが、「道」の周囲に住むスラヴ人たちから武力で商品をかき集めていったことになります。このような状態が続く中で、わざわざバルトから往復するような手間をとらずに、スラヴ人の地に支配者として君臨し、毛皮などを「税」として、よりシステマティックに徴収する方法を選ぶ者が現れるのも当然でした。

 ところでノルマン人たちは、その腕っぷしの強さを生かして傭兵としても活躍していました。西欧世界で彼らが残虐無比な海賊・ヴァイキングの名で恐れられていたのも故のないことではありません。ビザンツでもその精強さは高く評価され、ノルマン人による近衛部隊まで編成されていました。抜け目のない商人であると同時に無慈悲な略奪者、そして恐れを知らぬ戦士…コンスタンティノープルにやって来たヴァリャーグとは、このような人々であったのです。

(第2章へ�)

(98.11.7)


キエフ史概説へ戻る

ロシア史のページへ戻る

洞窟修道院へ戻る