補説2

マケドニア朝


 自ら「ローマ帝国」と名乗りながらラテン語ではなくギリシア語を話し、非キリスト教徒と「聖戦」を繰り返しつつも一方で彼らとの妥協を簡単に行い、その皇帝は絶対的な権力を持ちながらクーデタや反乱によっていとも簡単にその地位を失う…
 ビザンツ帝国という存在は非常に多くの謎と矛盾に包まれています。西洋史マニアの中でビザンツに心惹かれる人は多いと思いますが、確かにこの国は、それに値する魅力を十分に持っています。

 この当時のビザンツ帝国は、その長い歴史の中でも最も国力の充実した、いわゆるマケドニア朝(867~1057)の時代を迎えていました。領土的には地中海のほぼ全域を治めていたユスティニアヌス1世(在位527~565)時代に及ばないものの、皇帝権力・支配機構の安定度、財政的余裕、軍備の充実などいずれの面でも勝り、東西両世界にまたがる世界帝国として君臨していました。
 王朝の創始者はバシレイオス1世(在位867~886)、いかにもビザンツ的というべきか、非常に興味深い人間でした。彼は生まれからいえば一介の農民にすぎなかったのですが、青雲の志を抱いて(?) コンスタンティノープルに上ってからはトントン拍子で出世をし、皇帝ミカエル3世の側近となり、ついにはその愛妾を譲り受けるほどの寵愛を得るのですが、やがて本性を現して彼を殺し自ら皇帝になってしまうという、まるで斉藤道三のような下克上の人でした。
 このような宮廷クーデタはビザンツでは珍しくなく、それがため後のヨーロッパ人に権謀術数に満ちた陰惨な帝国というイメージを与える原因にもなりました。しかし見方を変えれば、この現象は一種の「能力主義」の表れとして支配層に活力を与えていたと言えます。

 バシレイオスとその後継者の下で、ビザンツ帝国はその領土を拡張していきます。ただし、かつてユスティニアヌス1世が西方を目指したのとは異なり、その矛先は主に東方、小アジアやバルカン半島に向けられていました。
 ロシア史にとってこの事実は重要と言えます。当時バルカンに蟠踞していたブルガリアがビザンツの文化圏に入ったことで、将来的にここを経由して、より北方のルーシにまでビザンツ文明が影響を与える可能性が生まれたからです。
 また比較的閉鎖的であったビザンツ教会も、この時期には例外的と言えるほど積極的な布教活動を周辺民族に対して行っていて、これが後の「ルーシの洗礼」につながっています。上記ブルガリアも一足早くビザンツからキリスト教を受け入れており、ルーシのキリスト教化に大きな影響を与えました。現在スラヴ民族の過半数が正教圏に属しているのは、実にマケドニア朝時代の布教活動に由来しているのです。

 ロシアとビザンツとの結び付きは有名であり、それがもたらした肯定的な、もしくは否定的な影響についてはよく論じられています。例えばロシアに特有とされる「東」と「西」にまたがる両義的な性格も、かつてビザンツ帝国が有していたものでした。
 このつながりはしばしば運命的なものと見なされることがあります。しかしすでに見てきたように、ルーシ国家の成立はマケドニア朝の対外拡張というある歴史的タイミングの下で起こっています。確かにマケドニア朝の性格がキエフ・ルーシのすべてを規定してしまったというのはナンセンスですが、後者が前者に多くのものを負っていることは否定できません。歴史における偶然性と必然性についても考えさせられる、興味深い問題と言えるでしょう。

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