ヤロスラフの治世(3)

ある時代の頂点と終焉


1、最後のビザンツ遠征

 これはウラジーミルの時代からすでに始まっていた傾向ですが、当時のルーシは久しく大規模な遠征を行わなくなっていました。もちろん戦争そのものは頻繁に起こっています。しかしその多くは内戦、国内諸種族を平定する小遠征、あるいはペチェネグに対する防衛戦で、たまに行われる外征もポーランドなどの隣国を目標とするものでした。長途ハザールやブルガリアにまで進軍したスヴャトスラフの時代は、すでに遠い昔語りの世界になりつつあったのです。
 ところが栄えある1036年から7年後の1043年、突如として驚天動地の大戦争が計画されました。すなわち、久しく行われることのなかったツァーリグラード(コンスタンティノープル)への遠征です。スヴャトスラフが最後にこの都市を目指してから実に70有余年、当時と比べ飛躍的に国力をアップさせたルーシの軍勢は、再びドニエプルを下ることになりました。

 しかしこの度のコンスタンティノープル行は、最初から運命に見放されていたもののようでした。ヤロスラフの長男でノヴゴロド公のウラジーミルを指揮官とする軍勢は、ドナウ付近で大嵐に遭い、さらにビザンツ海軍の攻撃により艦隊を破壊されてしまったのです。これではもはや遠征を続行することはできません。しかし問題は、退却しようにも船が少なすぎ、陸地に多くの兵士が取り残されていたことです。従士団のうち誰もこの部隊の指揮を執ろうとしないのを見て、ヴィシャタという司令官が名乗り出て彼らを率いることになりました。
 結局、両部隊の運命は大きく異なっています。ウラジーミル公自ら率いる従士団は皇帝が繰り出した追撃の艦隊を打ち破り、意地を見せて帰国したのに対し、ヴィシャタの下にあった難船組はビザンツ軍の虜囚となってコンスタンティノープルに連行されたのです。帝国側は捕虜の多くを盲目にするという、ブルガリア戦でも用いられた残酷な罰を与えています。ヴィシャタが帰国できたのは3年後、両国の間に和が結ばれてからのことでした。

 こうして折角の壮挙もいささか竜頭蛇尾な感を残して終結したのですが、これを以前のコンスタンティノープル遠征と比較するとかなりの違いを見ることができます。まずスヴャトスラフ以前の公たちと違い、ヤロスラフが自ら派遣軍を率いることはありませんでした。もはや公が軍の先頭に立ち、乾坤一擲の勝負をかけるという時代ではなくなっていたのです。また原初年代記によれば、嵐で船を失った人々はすぐに後退を主張したとのことで、この辺りにも遠征に対する熱意の差が現れているように思われます。


 さらに興味深いのは、ビザンツ側の史料の一つに書かれている事件の発端です。実はコンスタンティノープルでルーシの商人が襲撃され、それをきっかけとしてキエフから遠征軍が送られたようなのです。「在外同胞の救助」を名目に戦争をしかけるのは珍しくもないことですが、この場合は特に注目すべきと思われます。
 オレーグ以来のキエフ公は、ビザンツへの遠征とその後の条約締結を繰り返してきました。条約の大部分は両国間の通商にかかわるもので、例えばコンスタンティノープルを訪れたルーシの商人はビザンツ側の定めるルールを遵守し、その代わり宿舎や食糧を提供される、などといった条件が取り決められています。このような合意によってルーシは帝都での商業活動を保障され、一方ビザンツ側は、貿易の権利を与えることで北方の蛮族を手なずけようとしたのです。ともかくもキエフ公を正規の交渉相手に定め、彼にルーシの住人が帝国内で略奪を働くのを取り締まらせる意図があったのかもしれません。
 一方で遠征は貿易を「補完する」とでも言うべき存在で、これによってキエフは通常の交易活動に倍する富を獲得し、また通商条約を自国に有利なものに更新することができました。ところがウラジーミル以降のルーシは遠征をやめて協調路線に転じ、正規の通商関係を発展させていきます。いちかばちかの遠征によって関係を不安定にするよりは、両国の結びつきを確実にする方を選んだわけです。
 にもかかわらずヤロスラフが帝国と事を構えたのは、コンスタンティノープルでルーシ商人の安全が脅かされる、つまりは通商条約に対する違反行為が行われたからでした。従って遠征の目的は、スヴャトスラフ時代のような帝国との全面対決ではなく、条約違反を糺すために軍事的圧力をかけるという限定されたものだった可能性があります。そう考えると、今回の遠征に是が非でもコンスタンティノープルを征服するという迫力が感じられなくても不思議はないでしょう。あくまでも条約が主、遠征は従属的な意味しか持たなくなっていたわけです。

 交渉の結果ヴィシャタが釈放されたことからも分かるように、遠征後のルーシ・ビザンツ関係は落ちつきを取り戻し、キエフの軍勢が再びコンスタンティノープルをうかがうことはありませんでした。危険の多い戦争に頼らずとも、平和的な交流によってビザンツから多くのものを獲得できる時代になっていたのです。
 これ以降ルーシの軍事的努力は、ビザンツとの通商路や、あるいは国土そのものを防衛するために費やされることが多くなります。大遠征によって多くの国々を戦い取る古いタイプの「英雄」もまた、伝説の中に消え去ろうとしていました。消化不良に終わった1043年の遠征には、時代の変化がよく現れているように思われます。

2、ルーシ教会の発展

 当時の超大国・ビザンツとの結びつきは様々な点でルーシを変容させ、その発展を加速させるものでした。ヤロスラフ時代、ルーシが文化面で大きな躍進を遂げたことについては前章でも触れましたが、ここでは教会組織の成長について少し述べておきたいと思います。教会はビザンツから文化を輸入する受け皿であり、また教会のステータスがある程度まで国自体の成長度を示している以上、やはりこれに注目する必要があるでしょう。
 

 ヤロスラフ時代のルーシ教会は、その始まりから一世代を経てようやく組織の基礎を固めようとしていました。例えばルーシ教会のトップであるキエフ府主教の名前(テオペンプトス)が初めて原初年代記に現れるのもヤロスラフの時代です。また、例の聖ソフィアは「府主教座のある」教会と呼ばれており、単に豪華な外見を持つだけでなく格式の面でも重要であったことが分かります。
 ちなみにキエフ府主教がウラジーミル時代から存在していたかどうか、はっきりとは分かっていません(第9章参照)。少なくともルーシに残された史料の中で信頼できるものは、彼らの名を記録していないのです。仮に存在していても、生まれたばかりのルーシ教会でそれほど大規模な組織運営ができたとは考えられませんし、その活動を記録する体制も整っていなかったのでしょう(何しろ文字そのものがキリスト教と共に伝来したのです)。府主教がその職責にふさわしい働きを始めたのは、事実上ヤロスラフ時代と考えてよいように思われます。

 さて、キエフ・ルーシの全期間を通じ、府主教のほとんどはビザンツから送られてきたギリシア人でした。これはつまりルーシ教会がコンスタンティノープル総主教に従属していたからで、ビザンツ側はこのような形でキエフを自らの影響下に置こうとしていました。一方で、まだ若いルーシ教会が府主教のような高位聖職者(総主教の下のナンバー2)を自力で準備することは困難であったはずです。地元ルーシの出身者が府主教にまで登り詰めた例はほんのわずかしかありません。
 ところが、その数少ない例外の一人がヤロスラフ時代すでに現れているのです。彼が府主教に任じられたのは1051年、ルーシの洗礼よりわずか60数年後のことです。名前をイラリオンといいました。
 原初年代記によれば、府主教イラリオン誕生を主導したのはヤロスラフ公その人でした。この事実は「初のルーシ出身府主教」が持っていたある程度の政治性を物語っています。1043年の遠征に見られるように、ヤロスラフ公はビザンツに対して強硬な姿勢をとり、帝国の影響力を少しでも薄めようと努めていました。従って、ビザンツとの精神的な「へその緒」とでも言うべき教会の分野で独立することは、公にとって非常に好ましかったのです。
 もちろん、イラリオンはヤロスラフの政治的思惑のみでルーシ教会の頂点に立ったわけではありません。彼の知性と学識には傑出したものがあり、その面でも府主教の座に恥じない人物だったのです。イラリオンの残した有名な『恩寵と律法について』などの著作は、教会文献のほとんどがギリシア語からの訳本であったこの当時、キエフ・ルーシが自ら作り出した数少ない知的遺産でした。
 ただし当時のルーシ教会は、イラリオンのような人物を続けて用意できるほど成熟しておらず、彼以降のキエフ府主教には再びビザンツで任命されたギリシア人が就任しています。またヤロスラフ以後のキエフ公が外交方針を変えてビザンツへの対抗意識を薄めたのも、ルーシ教会の「独立」を阻む原因となりました。それでもなお、かくも短い期間でイラリオンの如き人材を生み出したことは、ルーシにおけるキリスト教の驚くべき発展を象徴しています。ついでに言えば、ヤロスラフがビザンツ帝国に対して見せた「親離れ」の試みからは、ルーシの政治的成長とそれに伴う一種の民族的高揚感を読みとることができるでしょう。

 一方で府主教に管轄される教会組織となると、相変わらず分かっていることは多くありません。しかしキエフ以外でも大きな都市には主教が置かれたことは確認でき、例えば原初年代記1036年の項に現れるノヴゴロド主教ルカ・ジジャタなどはその代表例と言えるでしょう。後にノヴゴロド主教は大主教に昇格し、「貴族共和制」と呼ばれるノヴゴロド独自の政治体制において大きな役割を果たしていきます。
 その他にも、年代記にはヤロスラフの治世に多くの教会や修道院が建てられ、聖職者が増加したと記されています。例のイラリオンが府主教に就任したときも、ヤロスラフ公は「主教たちを集め」て彼の昇格を決定しました。すなわち、この時代にはある程度まで高位聖職者の数が出そろい、ルーシ教会の「独立」を支えるまでになっていたのです。

 もう一つ、ヤロスラフ時代の教会を考える上で無視できないのが、キエフの洞窟修道院、すなわちペチェルスキー修道院が開基されたことです。創始者はアントニーというギリシア帰りの修道僧で、彼が住み着いたキエフ近郊の洞窟(ペチェラ)が全ての出発点となりました。
 ペチェルスキーは多くの優秀な学僧を輩出し、キエフ・ルーシにおいて文化的センターの役割を果たしていました。原初年代記など多くの年代記が編纂・保管されたのもここで、今日我々がルーシの歴史を知ることができるのは、この偉大な修道院のおかげと言っていいでしょう。
 ただし、他の修道院や教会もまた文化面で重要な役割を果たしています。読み書きができる者すらまだ少なかったこの時代、教育を受けた聖職者たちはほとんど「知的エリート」と呼ばれるにふさわしい存在でした。記録に値するものを文字の形で書き残すのも、彼らの重要な仕事だったのです。こうして、年代記や聖者伝・説教など、少しずつではありますが文学的な諸作品が現れ始めました。ルーシにおいては、教会の発展と文化の発展が歩みを共にしていたことがお分かりいただけるかと思います。

 ところで、以上の如きキリスト教会の繁栄は、これまで何度となく述べてきた異教の残存(例えば第9章、補説223234など)と矛盾しているかのように思われるかもしれません。現実に大多数の民衆は非キリスト教的な生活習慣を維持し、ヤロスラフ以後ですら教会に対する反抗が記録されています。一方本章で述べたように、特に大都市では教会組織が成長し、高度なキリスト教文化が発展していたことも事実です。つまりルーシには主に支配層・都市住民からなるキリスト教的世界と、農村を中心とした異教的世界の二つが併存していたわけです。
 言うまでもなく教会の側は民衆をキリスト教に教え導こうとし、徐々にその努力は功を奏していきました。伝統的な異教とキリスト教が融合したルーシ独自の民族文化は、こうした動きの副産物と言えます。しかし同時に、支配エリートと民衆との間に文化的な亀裂が生じ始めたのもこの時代でした。上からの・強引なキリスト教化は、ある種の危うさに常につきまとわれていたのです。

3、ヤロスラフ賢公の死

 こうして、ヤロスラフ時代最後の数年間は平穏に過ぎ去っていきました。もはやルーシに侵入する外敵も内乱をたくらむ親族もなく、1047年以降は外征すら記録されていません。この間、1050年に妻イリーナを、また52年には頼りになる長男・ノヴゴロド公ウラジーミルを喪ったことは、ヤロスラフにとって大きな打撃であったと思われます。おそらく彼は愛する者たちの死を深く嘆くと共に、自らの老いをひとしお強く感じたことでしょう。

 実際、ヤロスラフ自身の死はそのわずか2年後に訪れています。死期を悟ったヤロスラフ公は、「まだ生きている間に」自分の息子たちを教えさとし、彼らが互いに愛し合い、助け合うようにという言葉を与えました。このとき彼の脳裏にあったのは、父ウラジーミルと自分の二代に渡り兄弟間で繰り広げられた、血生臭い公位争いの記憶ではなかったでしょうか。為政者として、また父親として、子供たちの団結を願ったヤロスラフの言葉には心を打つものがあります。
 さらにヤロスラフは、存命中の息子の中で最年長のイジャスラフにキエフの座を委ね、その弟スヴャトスラフにはチェルニゴフ、フセヴォロドにはペレヤスラヴリ、イーゴリにはウラジーミル(・ヴォルインスキー)、ヴャチェスラフにはスモレンスクの街を与えました。そうして年少の子らには、イジャスラフを「私だと思ってこれの言うことを聞け」と言い渡しています。イジャスラフは「最年長の兄」と「首都キエフの支配者」の二つの権利をもって、他の公の上に立つ権利を得ることになりました。すなわちヤロスラフは、後継者選定に一定のルールを与え、予想される混乱を回避しようとしたキエフ初の支配者なのです。これは同時に、ルーシ国家の政治的成熟を示すものでした。
 ところで年代記によると、ヤロスラフが最も愛していたのは実は四男のフセヴォロドで、それゆえ彼をいつも手元においていたそうです。これは父ウラジーミル公とボリスの関係によく似ていますが、しかしヤロスラフは私情を優先させることなく、誰もが納得する年長者相続を採用したわけです。考えてみればウラジーミルの偏愛は結局ボリスを滅ぼしており、フセヴォロドを後継ぎにしなかったのはヤロスラフなりの愛情表現だったのかもしれません。

 1054年2月20日、殉教者聖テオドロス精進期の第一土曜日に、傑出した為政者にして軍司令官、文化の保護者、「賢公」と呼ばれたヤロスラフ・ウラジーミロヴィチ公はその生涯を終えました。兄スヴャトポルクに勝利してから35年、キエフ・ルーシを黄金時代に導いた偉大なる統治者の時代はこうして終焉を迎えたのです。病床にあっても後継問題に気を配り、冷静に物事を処理した後で死を迎える、いかにもヤロスラフらしい最期と表現していいでしょう。

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 その治世を改めて振り返ってみると、ヤロスラフは与えられた課題を一つずつ、ねばり強く果たすタイプであったように思われます。ルーシのキリスト教化、西方ポーランドとの国境紛争、遊牧民対策、反抗的な親族に対する闘争…等々、解決すべき問題は決して少なくなかったのですが、ヤロスラフは持ち前の才気と忍耐強さを最大限に発揮し、国政において見事な舵取りを見せました。ウラジーミルの改宗ほど劇的なイベントには恵まれないものの、その統治は高い評価を受けるべきです。
 ただし客観的に見るならば、キエフ国家の安定が彼個人の能力だけでなく、時代そのものの条件に多くを負っていたことも事実です(これは全ての「偉大な」支配者について言えることではありますが)。当時はルーシを取り巻く国際状況もそれほど厳しくなく、また各地方は中央集権的なキエフに対して公然と反抗するほど成長してはいませんでした。そしてかかる条件は、時の流れと共に容易に変化するものだったのです。
 ヤロスラフは自分の一族が永遠に繁栄することを信じていたでしょうが、事実は彼の没後しばらくして時代は大きく揺れ動き、子供たちもそれぞれに苦難の道のりを強いられていきます。

 しかし、差し当たってはこの辺りで筆を止め、ヤロスラフ賢公とキエフ・ルーシの「黄金時代」を見送ることにしたいと思います。一つの時代がここで過ぎ去り、残された者たちには新しい舞台が幕を開こうとしていました。従ってこの物語の続きも、また新たな場で書き始められることでしょう。

(01.01.11)


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