内乱と再統一

「ウラジーミルの子ら」の生と死



1、兄弟相剋劇の始まり

 ノヴゴロドの造反、そしてペチェネグの接近という騒然たる雰囲気の中でウラジーミルが没すると、ルーシは一時的に権力の空白とでも言うべき状況に置かれます。リューリクの子孫たちは元来それほどはっきりした権力継承の法則を持たず、ウラジーミル自身も兄を倒してキエフの支配権を手に入れたのですが、今回の事態はその時にもまして複雑なものでした。
 ウラジーミルの多くの子らのうち、長子ヴィシェスラフと次子イジャスラフはすでに父に先立っており、スヴャトポルクはポーランドと組んでウラジーミルへの反抗を企て、失敗して父の監視下にあり、またノヴゴロドのヤロスラフは反キエフ運動の先頭に立っていました。唯一合法的な後継者となる可能性のあったロストフ公ボリスは、折悪しく軍を率いてペチェネグの侵攻に対峙しており、キエフでウラジーミルの玉座をすぐに受け継ぐことのできる者はいなかったのです(他の子らは幼かったか僻遠の地にいたか、とにかく後継者争いにタッチすることはありませんでした)。

 この状況を見逃さなかったのがスヴャトポルクでした。彼はいち早くキエフに入ると父の玉座に座り、自らが正当な支配者であることを宣言したのです。
 彼はまた支配権を確実なものとすべく、キエフの人々に財宝を分け与えはじめました。何度か触れてきたように、当時の公にとって「気前の良さ」は大きく評価されるべき徳目で、スヴャトポルクもキエフ市民の支持を得るために敢えてこれを行ったのでしょう。
 しかし年代記作者は、キエフの人々の「心は彼と共にはなかった」、なぜなら多くの者がボリス率いる軍勢に参加していたから、と書いています。またおそらくウラジーミルが生前ボリスを後継者と見なしていたことも、キエフ人の支持を集める理由になり得たでしょう。スヴャトポルクにとってボリスは危険な存在であり、早晩排除すべき対象でしかありませんでした。
 

 スヴャトポルクは決断し、そして行動しました。強力なライバルであるボリスをキエフに帰還させず、できるだけ速やかに葬り去ること。これだけがキエフの玉座、ルーシの支配権、そして自らの生命を守るための確実な方法だったのです。
 おそらくはキエフ市民の忠誠が期待できなかったため、スヴャトポルクは夜半ひそかにヴィシェゴロドの街(キエフから約15キロの近郊都市)に至り、その地の貴族たちを召集しました。そして彼らの支持をとりつけると、ボリスの殺害を依頼したのでした。


 一方のボリスですが、彼の率いた軍は襲来が報じられていたペチェネグ人に遭遇しませんでした。あるいはルーシの主力軍接近を知ったペチェネグはあらかじめ退却していたのかもしれません。ともあれ、ボリスは無傷のまま軍を引き連れて帰還し、その途中で父の死を知ることになりました。
 ここでボリスがあくまでキエフの支配権を求めて兄と戦っていれば、その後の展開はどうなったかわかりません。しかし彼はそうしませんでした。「自分の長兄に対して手を上げることはできない」と言い、ヴィシェゴロドから暗殺者たちがやってきたことさえも知りながら、神への祈りを続けて無抵抗のままに殺されたのです。
 強敵を葬り去ったスヴャトポルクは、次にボリスの同母弟である幼いグレープ(ムーロム公)に狙いを定めました。彼は父ウラジーミルの名を使ってグレープを誘い出し、ボリスと同じく暗殺団によって始末させています。グレープもまた、己の運命を嘆きつつも神への祈りの中で死んでいった、とされています。

 この事件はスヴャトポルクの予想を超え、ロシアの歴史に大きな影響を残すことになりました。無抵抗で敵の手にかかった二人の兄弟公 ― ボリスとグレープ ― は、一種の殉教者として認識されるようになり、ついには教会によって聖人に列されるに至ります。これにはロシア人独自の宗教感覚が影響していると言われますが、同時にスヴャトポルクにとっては不幸なことでした。なぜなら後世、彼は自らの欲望のため無垢な弟たちをあやめた、罪深い殺人者として悪名をとどめることになってしまったからです。

 しかしさしあたってこの物語を続けることにしましょう。二人の弟を片づけたスヴャトポルクは、ドレヴリャーネの地を支配していた別の弟・スヴャトスラフをも殺害し、その権力は安定したかに見えます。しかし彼にとってはなはだ厄介な敵、すでに父の存命中からキエフへの反抗を開始していたノヴゴロドのヤロスラフがまだ残っていました。
 補説でも述べたように、当時ヤロスラフが父と戦うために呼び寄せたヴァリャーグ傭兵は地元のノヴゴロド人と紛争を引き起こしており、このままいくと彼は部下をまとめきれないまま父の討伐軍を迎え打つという非常に不利な立場に置かれるところでした。しかしウラジーミルの死はヤロスラフにとって非常な幸運であったと言えます。これによってキエフからの懲罰はなくなったばかりでなく、ノヴゴロド人を再び団結させて、逆にキエフ征服に乗り出すことが可能になったわけです。

 ヴァリャーグ傭兵で補強されたヤロスラフ軍が南下したのに対し、スヴャトポルクはペチェネグ人と交渉してその援軍を得、これを迎え撃ちました。両軍はドニエプルをはさんで対峙し、3カ月もの間にらみ合うことになります。
 しかし翌1016年になってヤロスラフ軍は攻勢に出ました(ノヴゴロド年代記によれば、この時スヴャトポルク軍の中に内通者がいて攻撃のチャンスを教えたらしい)。この時ペチェネグ人部隊は湖に阻まれてスヴャトポルクを助けることができなかったといいます。劣勢に立たされたスヴャトポルク軍は凍り付いた湖の上に後退しますが、その重みで氷が割れ、多くの兵が命を落とします。これを見たスヴャトポルクは戦場から逃走し、妻の祖国であるポーランドを頼ってルーシを離れました。一方のヤロスラフは勝利者としてキエフに入城しました。

2、ポーランドの介入

 ここまでの経過は、これまで何度か繰り返されてきた「北が南を征服する」という現象の焼き直しとも言えるでしょう。近くは彼らの父・ウラジーミルが、同じくヴァリャーグの力を借りてノヴゴロドから南下し、キエフを征服したことが思い出されます。同じようにヤロスラフも、「北」の代表者としてキエフの玉座を手にしたのでした。

 しかし今回の内乱はこれだけでは終わりませんでした。理由の一つとして、敗者たるスヴャトポルクが(先回のヤロポルクとは異なり)権力への意志を捨てず、あくまでキエフ回復を試みたことが挙げられます。しかしより重要なのは、ルーシを取り巻く国際環境がより複雑化していたことでした。
 原初年代記によれば、先代のウラジーミル公はポーランドのボレスワフ1世、ハンガリーのイシュトヴァーン1世、チェコのオルドジフ公などと交流し、「彼らの間には平和と友好があった」とされています。つまり、この時代になるとルーシはビザンツだけでなく、西方カトリック諸国とも関係を持つようになっていたのです。


 この中でも重要だったのが隣国・ポーランドとの関係であったと言えます。年代記の記述とは裏腹に、ウラジーミルとボレスワフは国境問題から戦いをも辞さなかった間柄で、おそらくはその和平交渉の過程でボレスワフの娘とスヴャトポルクとの婚姻が行われています。しかしポーランドはルーシに奪われた西ブグ川河畔地域(東ガーリチ)の奪回を諦めなかったらしく、先にスヴャトポルクがウラジーミルに反抗した事件でも、背後でボレスワフが動いていたと考えられます。またポーランドは熱心なカトリック教国で、正教ルーシとは宗教的にも対立関係にありました。従ってヤロスラフに敗北したスヴャトポルクが逃げ込んできたとき、岳父たるボレスワフがこれを対ルーシ政策の持ち駒として迎え入れたのは当然とも言えます。
 一方ヤロスラフもまた、国境紛争を有利に導くためかポーランドへの攻撃行動を行っています(1017年)。ここにおいて両者の対決は避けられない状勢となっていました。

 1018年の夏、国境付近・西ブグ川を挟み、遂にヤロスラフ対ボレスワフ・スヴャトポルク連合の戦いが行われました。ヤロスラフ軍は相変わらずヴァリャーグの援軍を含み、一方スヴャトポルクの側には(これまた前と同じく)ペチェネグが加わっていたようです。しかし勝敗を決したのは、戦場の地理に詳しかったポーランド勢でした。
 「勇敢王」というあだ名をとるほど優れた武人であったボレスワフは、自ら軍の先頭に立ってブグ川を渡り、ルーシ軍に奇襲を加えます。ヤロスラフは「武装する暇がなく」敗れ、わずか「四人の家臣と共にノヴゴロドに逃れ」ました。記録的な大敗北と言えます。一方のスヴャトポルクはボレスワフと共にキエフに入城しました。

 根拠地・ノヴゴロドに舞い戻ったヤロスラフは、更に海を渡ってヴァリャーグの国へ逃れようとします。これはかつて亡父ウラジーミルがとったのと同じ手段で、彼もまたヴァリャーグの援軍を得てルーシに戻って来るつもりだったと思われます。
 しかしながら、ここでも時代は変化していました。当時ノヴゴロドの代官であったコスニャチン、これはウラジーミルの伯父であり腹心でもあったドブルィニャの息子ですが、彼を先頭としたノヴゴロド人たちはヤロスラフが逃亡用に用意した舟を壊し、もう一度スヴャトポルクと戦うよう要求したのです。その代償として人々は自ら資金を提供し、公のためにヴァリャーグ傭兵を雇い入れました。こうしてヤロスラフは再び軍を整え、キエフへと向かっていったのです。
 

 我々はこの事件の中に、ノヴゴロドの成長を見ることができるでしょう。これまで公一族の継承者争いでは受動的な役割しか演じてこなかったノヴゴロドが、今回は自らの意志を持ち、発言し、行動したのです。この背景には、海外貿易を通じて富を蓄えたノヴゴロド商人の力の高まりと、中央集権的な政策を取り続けるキエフへの反発力がありました。この傾向はやがて、キエフからの自立という遠心的な作用を表すことになります。しかしこの局面においては、ヤロスラフを助けたのは疑いもなくノヴゴロド在地勢力でした。

 一方キエフではまたまた状況が急変しています。ボレスワフ・ポーランドの力を借りてキエフを奪回したスヴャトポルクでしたが、両者の蜜月は長くは続きませんでした。いかなる理由かはっきりしませんが、スヴャトポルクは突如としてキエフにいるポーランド人を殺戮するよう命じたのです。その結果ポーランド軍とボレスワフはルーシを離れますが、その際彼はキエフの財産を奪い、更にスヴャトポルク・ヤロスラフ兄弟の姉妹たちや貴族をも捕らえて帰途につきました。これを見る限り、ボレスワフは命からがら逃げ帰ったのではなく、実力でスヴャトポルクの妨害を打ち破って堂々と帰国したようです。
 更にポーランド側の記録によれば、この時ボレスワフを追撃したスヴャトポルクの軍はその反撃にあって大敗したとのことです。勢いに乗ったポーランド軍はかつてウラジーミルに奪われたチェルヴェンの町々(ルーシ・ポーランド国境、西ブグ川流域)を奪い返し、ポーランドに凱旋しました。結局ボレスワフのキエフ遠征は、ポーランドにとって成功裡に終結したのです。

 なぜスヴャトポルクは自ら同盟者を攻撃し、不利な結果を招くような挙に出たのか?当時の記録からはっきりとした理由を読みとることはできません。しかし、案外キエフ市民の意向がその背後にあったのではと考えることもできます。
 年代記によれば、ボレスワフはキエフ入城後に部下を周辺に派遣し、食糧を挑発させています。これは征服者としての行動であり、キエフ人の反感を買ったと考えられます。また先に述べたようにポーランド人はカトリック教徒であり、正教ルーシの首都を彼らが占拠しているという状態はキエフ人にとって受け入れがたいものでした。従って、スヴャトポルクに対してポーランドと手を切るよう下からの突き上げがあったと考えることもできるわけです。
 いずれにせよはっきりしているのは、スヴャトポルクは同盟軍を失ったばかりか麾下の軍隊にも大打撃を受け、宿敵ヤロスラフとの決戦を前にして既に戦う力を失っていたという事実です。ポーランドからの自立は一種の賭けでしたが、それは結局のところ最悪の結果に終わったのでした。

3、決着

 同じ1018年のうちにヤロスラフはキエフに向かって進撃し、スヴャトポルクはこれに抗することができず逃亡しました。年代記にはこの時戦闘があったという記事すらなく、両者の戦力差が大きかったことが読み取れます。こうしてキエフは再びヤロスラフの手中に収まりました。
 しかしこの状況下にあってスヴャトポルクはまだ諦めていませんでした。彼は今一度ペチェネグ人に頼り、その軍勢を結集してキエフの奪回を目指します。結局スヴャトポルクが最後まで当てにできたのは「」の持つ力なのでした。

 1019年、ペチェネグの大軍を集めたスヴャトポルクはキエフを目指して進み、一方のヤロスラフもこれを迎え討つために出撃しました。両軍はリトという川の畔(キエフから一日行程)で激突します。ここは丁度ボリスが殺害された場所で、ヤロスラフは戦いに先だって天に祈り、また殺された弟に祈ってその加護を求めたといいます。この挿話が真実かどうかはともかく、ヤロスラフがかなり早い段階から殺された弟たちを聖化し、スヴャトポルク攻撃の材料としたことは事実のようです。
 両者の決戦は金曜日に起こり、日が昇るとともに「かつてルーシにはなかったほどの」激しい戦いが繰り広げられました。年代記の表現を信じるなら、戦士たちは混戦の中で互いの腕をつかんで斬り合い、戦場は「血が谷間を流れるほど」の無惨な光景を呈したのです。


 この日戦いは三度に及び、夕方近くになるとヤロスラフ軍の優勢は動かしがたいものになりました。スヴャトポルクは家臣とともに逃走しますが、度重なる敗北によって最後の気力まで奪われたのか、彼はもはや馬に乗ることもできず担架で運ばれています。その上自分を追う敵軍の幻影にも悩まされ、立ち止まることもできずに逃げ続けたのでした。
 この時彼は西方に向かっているので、あるいは再度ポーランドに頼るつもりだったのかもしれません。しかし結局それもならず、ポーランドとチェコの間の「荒野」に至り、そこでスヴャトポルクは一生を終えました。年代記作者は「彼の墓はいまも荒野にあり、そこからひどい悪臭が発散している」と書き記し、スヴャトポルクについては常に「呪われた」という形容詞を付しています。彼はルーシの歴史における永遠の「敵役」として記憶され、その汚名を晴らす機会には遂に恵まれませんでした。

 こうしてウラジーミルの死に伴う混乱は複雑な経過の後に終結し、ヤロスラフが新たな統治者としてルーシを治め始めます。彼の治世はキエフ・ルーシが単一権力の下で繁栄した、いわゆる「黄金時代」にあたり、非常に華やかなイメージで語られます。次章ではそのヤロスラフ時代について筆を進めることにしましょう。

(00.02.21)


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