キエフ国家の発展

「太陽公」ウラジーミルの遺産


1、戦いの日々

 すでに見てきたように、ウラジーミルは改宗以前から内外の敵と激しい戦いを繰り返してきました。980年代にはルーシ国内における反抗的な種族の討伐が行われています。当時こうした国内の統一戦は最終段階にありました。
 一方で近隣諸国との国境線争いも激しくなりました。981年にはポーランドとの戦いがあり、ガーリチ地方(現在のウクライナ西部)の奪取に成功しています。ちなみにガーリチ問題はこの後しばらくの間、ルーシとポーランドとの関係を緊張させることになります。その2年後にはリトヴァに出兵し、同じく西方への拡張を進めました。一方、東方においてはヴォルガ流域のブルガール人に対して遠征し(985年)、有利な条件のもとで講和を結ぶことに成功しています。

 これらは第7章で述べたとおりですが、しかしウラジーミル治下のルーシをもっとも悩ませたのは草原の民・ペチェネグ人の襲来でした。
 彼らはイーゴリ公の時代すでに南ロシア草原に現れたことが記録され、スヴャトスラフの時代にはキエフを包囲し、そして公をもを戦死させるなど、ルーシを南から脅かす強敵になっていきます。ペチェネグ台頭の理由の一つは皮肉なことにスヴャトスラフ自身にあり、彼がハザール国家に致命傷を逐わせたため、草原においてペチェネグを牽制する勢力がなくなったのです。
 ルーシがペチェネグを、そして草原の遊牧民を恐れた理由の一つは、ルーシとビザンツとの通商ルートに対する圧迫でした。ドニエプルを往来する者にとって下流にあるいくつかの早瀬は非常な難所で、ここでペチェネグ人はルーシを待ち伏せする…これはコンスタンティノス7世の記録にある通りですが、とりわけ洗礼を契機にビザンツとの交流をより深めたウラジーミルにとって、ペチェネグの攻撃から通商路を守ることは重要な課題でした。


 しかしペチェネグの剽悍な騎兵に対してはウラジーミルもしばしば苦杯をなめさせられ、996年には自ら軍を率いてこれに対したものの、持ちこたえられずに逃げて橋の下に隠れるという有り様でした。また997年には公の不在をついたペチェネグ軍にキエフ近郊のベルゴロドの街を囲まれる事態も起きています。
 そこでウラジーミルは、劣勢をカバーするために南部国境の警備を強化し始めました。年代記によれば、「キエフのそばに町が少ない」ことを心配したウラジーミルは川に沿っていくつかの町を建設し、そこに貴族を住まわせました。明らかにこれはキエフをペチェネグから守るための要塞とその守備隊のことで、彼らがペチェネグと戦ったという記事がその後に続いています。


 また11世紀の初頭に、ペチェネグ人を改宗させるべくドイツからやってきたブルーノという宣教師がキエフを訪れています。ブルーノの手紙によると、彼はキエフからウラジーミル公自らが率いる軍に護衛されて国境へと向かったのですが、そこにはペチェネグ人に備えて頑丈な柵と門が設けてあったとのことです。
 長大な国境に防御施設を置き、軍隊を駐屯させる…このために必要な資材・費用が莫大であることは言うまでもなく、これは巨大化した公の権力のもとでのみ可能な事業でした。逆に、公はペチェネグ人対策などを通じて自分の権力を成長させたとも言えるわけで、いずれにせよウラジーミル時代の公権力は以前にもまして大きなものになっていきました。
 もう一つつけ加えると、ブルーノはキエフから国境までの距離を二日行程と報告しており、ペチェネグとの境界線は意外に近くにありました。キエフは地理的に森林から草原に突出した位置にあり、その意味でも遊牧民への対策が公の重要な課題となっていたわけです。

2、「古いもの」と「新しいもの」
 

 前章ではウラジーミルの洗礼によってルーシがいかに変わったか、について多少述べておきました。キリスト教受容がルーシにとって様々な変化のきっかけとなったことは確かなのですが、しかしウラジーミル時代を全体として観察してみると、そこには多くの「変わらなかったもの」も見受けられます。以下、そうした古い時代の要素について見ることにします。

 年代記におけるウラジーミルの記述は、真の教えを受け入れた聖なる君主として彼を一方的に賞賛するものが多いのはもちろんですが、よく見ると荒々しい戦士どもの首長としての描写も意外に多いことに気づきます。父スヴャトスラフと同じくウラジーミルも戦陣で生涯の多くを過ごした人であり、時には生命の危険にさらされながら(ペチェネグから逃れて橋に隠れたエピソードを思い出して下さい)、軍の先頭に立って戦っていました。最初期の公たちと同じく、ウラジーミルの時代にも公の任務において軍事の占める割合は大きかったのです。
 当時はまだ公は絶対的な君主権を確立しておらず、戦士たちと公との関係は苦楽を共にする「戦友」に近いものがありました。年代記にはウラジーミルが家臣やその他の人々に気前良く物を与え、宴会を催したという記述が多く出てきますが(こちらを参照)、この「気前の良さ」も公に求められる資質でした。公は従士団を養い、人々に戦利品を分配し、その代償として権力の行使が可能となったのです。神の代理人として振る舞う絶対的な君主像は、この時代にはまだ定着していませんでした。
 またウラジーミルは「従士団を愛し、国の機構や戦いや国の法規について彼らと相談」していた、という記事もあります。ここからも公に独裁的な権力がなかったことは読みとれるのですが、一方で従士たちが戦いのみならず国政にも参加し、やがて国家の支配エリート=貴族に変化していく端緒も現れていると言えます。

 要するにウラジーミルは、キリスト教を受け入れ新しい国際秩序を切り開いていくと同時に、国内的には「戦士団の第一人者」に近い、古いタイプの権力者でもあったわけです。ウラジーミル時代のこのような「過渡的」性格は、年代記の伝える以下のエピソードの中にもよく現れています。
 996年、「主教たち」はウラジーミルに建言し、盗賊が増えたので彼らを死刑に処するよう求めました。それまでルーシに死刑はなかったので、これはビザンツの法を輸入したものと考えられます。公はこの要求に従ったのですが、しかし間もなく「主教や長老」の助言にしたがい、死刑を再び廃止して罰金刑を復活させます。というのも罰金は戦費に充てられていたからで、ペチェネグなど外敵との戦いに明け暮れていたウラジーミルにとっては貴重な財源なのでした。
 こうしてウラジーミルは、新しい法大系の導入に一度は踏み切ったのですが、すぐにこれを撤回して「父と祖父の定め」を復活させたわけです。伝統的な法観念は、例え社会がキリスト教などによって表面的には変わろうとも、一朝一夕に消え去るものではありませんでした。こうした古い要素は、これから先も長いことルーシの人々の心性を規定していくことになります。

3、息子たち、そして死

 ウラジーミルには全部で12人の子がいたと伝えられています。この中には事績などがまったくわからず、実在性すら怪しい人物もいて、年代記作者が聖なる数字とされる「12」にこじつけたとも考えられています。しかしこの中の何人かは、その後の経過の中で確実に重要な役割を果たしていきます。


 これらの子供たちはウラジーミルによって各地の重要な都市に送られました(地図参照)。主な者を挙げれば、長子ヴィシェスラフはノヴゴロドに、イジャスラフはポロツクに、ヤロスラフはロストフに、スヴャトポルクはトゥーロフに、ムスチスラフはトムタラカーニにという具合です。
 これは、かつてスヴャトスラフが3人の息子に対したのと同じやり方でした。子供たちはそれぞれ、キエフにいる父の代官としての役割を持たされたのです。これによって従来各地を支配していたはずの土着の権力者たちは完全にその命脈を経たれ、ルーシの地は完全にリューリク家の支配下に入っていきました。
 こうしてウラジーミルの時代、キエフを中心とする統一権力はほぼルーシを掌握することに成功しました。それまでキエフと長い間戦ってきた諸種族は、これ以降あまり史料に姿を見せなくなります。種族は自前の支配層を失い、キエフから派遣された代官のもとで単なる「地方」に転化していきました。

 しかしこの体制は、現実においては新たな問題を引き起こすことになります。というのも、「代官」である息子たちは必ずしもキエフにいる父に従順であるとは限らず、しばしば分離的な動きを見せていたのです。血縁による統治網は、ウラジーミルの在世時からすでにほころび始めていました。
 その原因として、血縁上の上下関係がいまだ主君―家臣という段階になっていなかったことが挙げられます。この点、例えば江戸幕府における親藩大名が、将軍家の分家であると同時にはっきり「家臣」としての身分を受け入れていたのとは根本的に違っているわけです。
 一方で、各地方はしばらく前までキエフから独立的な伝統を持っていて、それが派遣されてきた公子たちに影響を与えた可能性もあります。後で見るノヴゴロドの反抗は、ヤロスラフ個人というよりはノヴゴロド全体の意志として引き起こされたようにも見えます。キエフ・ルーシの統一はいまだ多くの不確定要素を抱えていたのでした。


 「不従順な」息子の一人はトゥーロフ公スヴャトポルクでした。彼はポーランド公(後に王)ボレスワフ1世の娘を妻としており、ボレスワフと結んでポーランド勢力をルーシに引き入れようとしたのです。ボレスワフは先にウラジーミルに奪われた土地の奪回を目論んでおり、一方スヴャトポルクはもともと父との折り合いが悪く将来への不安を抱いていたと考えられます。しかし事前にこれを察知したウラジーミルはスヴャトポルク夫妻とポーランドから送られたカトリックの司祭を逮捕して投獄し、事件は一応解決しました。


 より深刻だったのがノヴゴロドです。ここは長子ヴィシェスラフが没した後、四男のヤロスラフが公となっていたのですが、1014年に彼は公然とキエフに対して反旗を翻しました。それまでノヴゴロドは毎年2000グリヴナを上納金としてキエフに納めていたのですが、ヤロスラフはこれを拒否したのです。
 言うまでもなくウラジーミルは激怒し、「道を整え橋をかけ」るよう命令を下しました。ノヴゴロドに対し、おそらくは自ら軍を率いて懲罰を行うつもりだったのでしょう。これが実現していれば、ウラジーミルの晩年は陰惨な父子相剋劇で飾られるはずでした。

 しかしこの計画はウラジーミルが病に倒れたことで中止されます。彼の病は重く、翌年にペチェネグ人が攻めてきた時にも対処することができず、お気に入りの息子であったボリス(ヤロスラフの後任としてロストフ公であった)に軍を預けてこれに当たらせています。ボリスを手元に置いておいたこと、及び自分の代理として軍を指揮させたことなどから、ある程度はボリスを後継者と考えていたのかもしれません。しかしそのボリスの凱旋を待つことなく、ウラジーミルは波乱に満ちた生涯を閉じます。1015年7月15日のことでした。

 当然のことながら年代記はウラジーミルのキリスト教受け入れを顕彰し、彼を自らの民を洗礼した「新しいコンスタンティヌス」と呼んでいます。確かに教会人の目から見れば、ウラジーミルは何よりも「ルーシの洗礼」によって記憶されるべき存在でした。
 しかし洗礼を差し引いても、ウラジーミルが特筆に値する強力な個性を持っていたことは明らかです。彼は目的のために手段を選ばぬ陰険な策士であり、父と同じく常に軍勢の先頭に立つ勇猛な戦士であり、賢明な政治家にして外交家であり、また自分の兄弟や息子との戦いをも辞さない権力にとりつかれた人間でもありました。彼の個性は必ずしも善良なものではなかったのですが、その類まれなエネルギーは、新しい時代を切り開くのに充分であったと言えます。

(99.08.28)


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