異教最後の時代

大いなる転換点、の少し前の話


1、ヤロポルク

 故スヴャトスラフ公には3人の息子がいました。彼は自身最後となる遠征に出発する前、この3人をそれぞれルーシの諸地方に「配置」しています。すなわち長男ヤロポルクは首都キエフに、次男オレーグはドレヴリャーネ族の故地(つまりキエフの北西地方)に、そして末子のウラジーミルは遠く離れたノヴゴロドに送り、各々その地を公として治めさせたのでした。
 スヴャトスラフがドニエプルの早瀬で倒れると、当然のごとくキエフに座するヤロポルクが後継者として立ち、ルーシを治めはじめました。ここまでは何の問題もない、はずでした。

 事件が起こったのは975年、ヤロポルクの治世の3年目のことでした。ある日、キエフの高官スヴェネリドの息子でリュトという者が、狩をしているうちにドレヴリャーネ公オレーグの狩場に入り込んでしまったのです。オレーグはこれを見かけると問答無用でリュトを殺し、そのためスヴェネリドは深くオレーグを恨むようになりました。
 このスヴェネリドはヤロポルクの祖父イーゴリの時代からすでに司令官として活躍し、スヴャトスラフのバルカン遠征にも従軍し、対ビザンツ条約に名を残すほどの経歴の持ち主でした。それだけにキエフにおける彼の権威は無視し得ないものであったと考えられます。スヴェネリドはことあるごとに主君ヤロポルクをたきつけ、弟オレーグを攻撃してその領地を接収するようそそのかしました。
 2年後の977年、ついにヤロポルクの兵団はドレヴリャーネの地に侵攻し、オレーグの軍勢を打ち負かしました。オレーグはヴルチーという街に逃げこもうとしますが、誤って街を囲む堀の中に落ち、味方の人馬の下敷きになって悲惨な最期を遂げています。
 

 ところでヤロポルクは本質的に気の優しいたちで、弟を殺すことまでは考えていなかったようです。変わり果てたオレーグの遺骸を見てヤロポルクは弟のために泣き、かたわらのスヴェネリドに向かって「これを見ろ。これこそお前が望んでいたことなのだ」という悲痛な言葉を残しています。この時スヴェネリドがどう答えたかは記録されていません。

 末弟ウラジーミルはこの報をノヴゴロドで聞き、「恐れて海を渡って逃げ」ています。つまりはバルト海をわたってヴァリャーグの故郷・スカンディナヴィアに逃亡したのですが、この結果ヤロポルクはルーシ全土の支配者となり、ノヴゴロドには自分の代官を派遣しました。

 これ自体は偶発的な出来事かもしれませんが、しかし支配者相互の関係が不明確な条件の中では起こるべくして起こった、と言えるかもしれません。ヤロポルクは弟たちから「主君」への服従を要求するのか、あるいは年長者への敬意に留まるのか、いまだはっきりしたルールはなかったと思われます。この問題は、これより先何度となくルーシの地を揺るがす諸公の内戦となって現れることになります。

2、北から南へ

 3年後の980年、ウラジーミルはノルマンの軍勢を率いてノヴゴロドに帰還し、兄に対する挑戦状をたたきつけます。
 彼がまず行ったことは、ポロツクの街を支配するノルマン出身のログヴォロドという公に対し、その娘ログネジ(ログネダ)に求婚することでした。ポロツクは西ドヴィナ水系に位置し(地図で確認して下さい)、キエフに向かうには重要な拠点となるはずでした。しかしログネジはウラジーミルを手ひどく侮辱して拒絶し、むしろキエフのヤロポルクに嫁ぐことを望む、と答えました。その返礼としてウラジーミルはポロツクを蹂躙し、ログネジを奪ってその父と兄とを血祭りに上げています。
 明らかにウラジーミルは同盟者獲得競争でキエフに遅れをとったにも関わらず、軍事力でそれを挽回するだけの強さを持っていました。これは彼と共に「海の彼方」からやって来た精強なノルマン人たちの力によるものだったと考えられます。今やこの恐るべき攻撃力は直接キエフに向けられることになりました。


 実際、年代記を見ても決着はあっけなくついたようです。ヤロポルクは野戦で弟に抗することができず、キエフの街に篭城しました。彼にとって不運だったのは家臣ブルドがウラジーミルに内応していたことで、その(偽りの)助言に従ってヤロポルクはキエフを放棄し、さらにウラジーミルとの和平交渉に応じてそこで殺されています。無惨な最期ではありましたが、どことなく気の弱さ、執着心の少なさが感じられるヤロポルクのような人間にとって時代はあまりにも厳しいものであったと言えます。

 この出来事は全体として882年を思わせるものがあります。すなわちノヴゴロド・ヴァリャーグを中心とする北方勢力が、キエフを中心とした南方の勢力を征服した、という点においてです。また北からの征服者が勝利の後でキエフに座したのも共通していました。
 興味深いのは、ヴァリャシコというもう一人の家臣がヤロポルクに「南の草原に逃げてペチェネグと共闘する」よう助言していることです。結局ヤロポルクがこれを拒否してウラジーミルに殺されると、ヴァリャシコは自身南に脱出し、ペチェネグと結んでウラジーミルに抵抗し容易に屈しませんでした。
 つまり当時のルーシは、キエフを中心とした統一がすすめられていたとはいえ、いまだノルマン的な「北」、及び草原の遊牧民との同盟を辞さない「南」の要素が隣り合わせに存在していたわけです。そして南北の対立が表面に現れるのはこれが最後ではありませんでした。

3、異教のパンテオン

 ともあれ、ウラジーミルは兄に勝利して全権を掌握し、キエフの玉座からの支配を開始しました。
 父や祖父たちと同じく、彼もまた自分の治世を一連の戦いによってスタートさせることになります。しかしスヴャトスラフと異なり、彼はもはやビザンツに向けた華々しい大遠征を行おうとはしませんでした。ウラジーミルの軍勢が戦ったのはキエフの権威を認めようとしない諸種族(ラジミチ族・ヴャチチ族など)、西の隣人ポーランド・リトヴァ、ヴォルガのブルガール人などでした。
 要するに彼はリスクの大きい大遠征ではなく、ルーシ国家統一の阻害要因である種族の解体を志向し、また近隣諸国と戦って領土を拡大する政策に転じたわけです。どちらかといえば「内政志向型」の遠征で、従って祖母オリガの政策にあい通づるものがありました。

 こうした業績にも関わらず、この時期のウラジーミルについて年代記は非常に厳しい評価を与えています。これはひとえに聖職者であった年代記作者の価値観に基づくもので、キリスト教徒となる前のウラジーミルをことさら罪深く描くことで彼の洗礼がいかにすばらしい事業であったか、強調しようという意図が感じられます。

 具体的に彼に対する非難の対象となったのは、まずその「情欲」に対してです。年代記によれば、彼には数百人の妻妾があり、それにさえ満足せずに家臣の妻や娘にまで手を出したとのことです。先に述べたログネジの他に、殺されたヤロポルクの妻でギリシア出身の元修道女も彼の「情欲」の犠牲者として数えられています。
 キリスト教的な倫理観 ― 神が与え給うた唯一の配偶者、という観念がない時代、家族や婚姻の形態は今とは全く異なっていたと思われます。とは言え、ウラジーミルが並外れた女好きであった可能性も否定できないのですが。
 加えてウラジーミルは、当たり前のことですが異教の神々に対する崇拝を行っていたわけで、それも非難の対象になっていました。しかもこの時代に異教信仰は今までにないほど大がかりになった形跡があります。再び年代記によれば、ウラジーミルはキエフの丘の上に雷神ペルーンをはじめとする神々の像を立てて生け贄を捧げ、同様にノヴゴロドでも人々に「偶像」を崇拝させていました。
 今日ではこれはウラジーミルによる一種の改革であった、とする解釈がなされています。ウラジーミルの立てた「パンテオン」(万神殿)の中には、これまで言及されることの多かった主神ペルーンの他に様々な神がまつられ、その中には非スラヴ(イラン系、フィン系など)的な要素を持つ神々も見られます。
 従って、ウラジーミルは広がった版図に居住する様々な部族・民族の神々を一箇所に集め、いわば国家的な宗教体系の中に組み入れることで国土の統一を進めようとした、ということです。

 実際にこの見方が妥当なものかはわかりません。ただ、仮にこの試みが存在したとしても、結局のところ失敗する運命にあったとは言えると思います。それぞれの地方・部族の伝統の上になり立つ神々は、ルーシ国家統一の流れと両立することは難しく、他方で一神教(東方正教・カトリック・イスラムなど)を奉じる国々が持つ高い文明はルーシにとって魅力のあるものでした。スラヴの隣人たち ― ブルガリアやポーランドもまた同様の選択(キリスト教化)を行っており、問題はそれがどのようなタイミングでなされるか、だけでした。

(99.04.15)


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