征服と改革

あるいは雨降って地固まるのこと


1、復讐者オリガ

 イーゴリ殺害後、勝ち誇ったドレヴリャーネ族がまず最初に行ったのは、イーゴリの寡婦オリガを自らの公マルの妻として迎えるべくキエフに使者を送ることでした。
 おそらくドレヴリャーネとしては、勝者が敗者の財産として彼の妻をも略奪するという感覚だったのでしょう。このときイーゴリの忘れ形見・スヴャトスラフはまだ若年で、オリガさえ押さえておけばポリャーネ族の土地を支配する上で一種の「合法性」が手に入る、と感じられたのかもしれません。いずれにせよ、この時点でドレヴリャーネは自らの勝利を確信していただろうと思われます。

 彼らにとっての誤算(というより不運)は、オリガが並外れた意志と知力を持ち、当時の女性としては例外的とも言える行動派であったことです。彼女は非情なまでの冷静さをもって恐るべき「復讐」をやり遂げ、キエフの覇権を守り抜いたのでした。
 まずオリガはキエフにやってきたドレヴリャーネの使者を愛想良く受け入れ、油断させた上で残酷に殺してしまいます。使者の一人は「私たちにとっては(この死に方は)イーゴリの死よりもひどい」という悲痛な台詞を残しています。続けて彼女は再度ドレヴリャーネからやってきた使者をだまし討ちにして殺し、またイーゴリの葬儀という名目でドレヴリャーネの戦士たちを招いて虐殺し、最後にドレヴリャーネの本拠地であるイスコルステニの街に攻撃を仕掛けます。激しい抵抗を見せるドレヴリャーネに対してオリガはまたしても奇計を用い、ついに彼らを屈服させることに成功しました。イーゴリの死の翌年、946年のことです。

 以上のような「復讐」物語は、英雄叙事詩的な脚色や年代記作者の創作によってかなりの誇張があると考えられています。例えばオリガはまず最初にやって来たドレヴリャーネの使者を船に乗せたまま生き埋めにし、また2番目の使者を風呂に閉じ込めてから焼き殺していますが、これは当時の葬儀のあり方をシンボライズした(ノルマンの首長が亡くなると、その遺骸を船に乗せて火葬にする習慣があった)もので、そのまま現実と受け取るには無理があります。
 しかしイーゴリ殺害という危機をキエフが乗り切ったこと、反抗的なドレヴリャーネが再起不能なまでの打撃を受けたことを疑う必要はないでしょう。これ以降ドレヴリャーネが、キエフに対して公然と反旗をひるがえすことは絶えてなくなります。そして彼らを屈服させたのは、まぎれもなくオリガという力強い女性なのでした。

2、改革

 しかしより重要なのはオリガがスヴャトスラフ成人までのキエフ政権を支え、そればかりでなくいくつかの大きな「改革」をも行ったことでした。彼女は単なる復讐者ではなく、賢明な為政者としての資質も十分に持ち合わせていたのです。

 年代記によれば、「復讐」の後オリガはドレヴリャーネの地に「法規」を導入したとあります。具体的な内容は伝わっていませんが、キエフがこの地の人々を統治するにあたって基本となるルールを定めたものと見ていいでしょう。徴税にあたってまったく基準を持たず、恣意的な取り立てを行って反抗を招いたイーゴリ以前の轍を踏まないためにも、これは必要な措置でした。さらに彼女は翌年ノヴゴロドをはじめ各地をめぐり、「貢物納入所」を設置しています。これは公が自ら取り立てに回るのではなく、配下の者が組織的な徴税を行う出先機関であったと考えられます。言い換えるなら、古い巡回徴貢体制から脱却するための第一歩が踏み出されたわけです。
 全体的に彼女の「改革」には、それまでむき出しの武力による収奪でしかなかった支配をよりシステマティックなものにするという志向が見られます。あるいはこれは恒久的なものではなく、女性であるがゆえに軍事力だけに頼る支配は不利だと見たオリガの、一時的な措置だったのかもしれません。例えば巡回徴貢体制はこの後も長きに渡ってその痕跡を残しています。
 しかしいずれにせよ、彼女の行った改革や国制の整備は、長い目で見るとその後のルーシ国家の発展を先取りしていたと言えます。プリミティヴな力による支配から一定のルール・機関に則った体制への変化は、揺籃期における多くの国家で見られたプロセスですが、オリガ時代のルーシもまさに同じ段階へとさしかかっていたわけです。

3、キリスト教への接近 

 オリガの政策についてもう一点特筆すべきことは、彼女がキリスト教の受け入れに意欲を見せたことです。イーゴリ時代のルーシにすでにキリスト教徒の数が増えていたことは別の箇所でも述べましたが、オリガはさらに一歩進んで自ら改宗を行ったのです。
 955年、オリガはツァーリグラード(コンスタンティノープル)を訪れ、キリスト教徒としての洗礼を受けました。年代記によれば、オリガの美貌と知恵に驚いたビザンツ皇帝は彼女に大いなる栄誉と贈り物を与えたということです。
 この記事は年代記作者の粉飾としても、オリガが帝国の首都を訪れたことは事実のようで、例の『帝国統治論』を著したコンスタンティノス7世が彼女の訪問を記録しています(ただしその訪問は967年のこととされている)。皇帝としても帝国を悩ます危険な「野蛮人」がキリスト教を受け入れるについては大きな関心があったはずで、わざわざ活字にして残したと考えられます。

 オリガはなぜ父祖伝来の神々を捨ててキリスト教に近づいたのでしょうか?もちろん彼女自身の内面的な要請も無視しえませんが、ここでは当時のルーシを取り巻く国際状況からこの問題を考えていきたいと思います。
 自らコンスタンティノープルを訪れたことから推測されるように、オリガはビザンツとの関係の強化を目指していたようです。実際のところ、多くの戦利品が期待できる代わりに失敗した場合失うものも大きいリスキーな遠征に頼るよりも、交易を通じて地道に帝国からの文化の摂取をはかる方が賢明な選択ではありました。
 その場合大きな障壁となるのが宗教の違いです。とりわけ、自らキリスト教帝国をもって任じているビザンツとつきあう上で、「異教」に固執することは、対等な交渉を不可能にするばかりではなく「聖戦」の対象として討伐される危険性がありました。そのため、ルーシも同じキリスト教国となっている方が万事につけ都合が良かったのです。
 ここで『原初年代記』が伝えていない興味深い事実があります。それは、オリガが神聖ローマ帝国のオットー1世にも宣教師の派遣を依頼していたということです。つまり彼女はビザンツ教会と同時に、そのライバルであったカトリック教会にも近づいていたことになります。
 おそらくオリガとしては、ビザンツへの接近は望むところであったとしてもその影響力が過大になることを恐れ、一種の保険としてカトリックというカードを使用したと考えられます。これよりほぼ1世紀前にビザンツからキリスト教を受け入れたブルガリアも、その過程でカトリックとも交渉してビザンツに揺さぶりをかけています。オリガの今回の行動も、きわめて冷静な計算の上で行われたものと思われます。

 しかし結果的にカトリックがルーシの地に根付くことはありませんでした。あくまで幼い息子の摂政であったオリガに代わりスヴャトスラフが権力を握ったためで、キリスト教化の流れは一時的に中断されることになります。と同時に、ルーシで最後の華々しい「叙事詩的英雄」の時代が始まろうとしていました。

(99.01.11)


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