キエフ・ルーシ前史2(その前夜)

「土台作り」はそろそろ終わり?


1、ビザンツ帝国

 かつて地中海世界を支配していた大ローマ帝国も、前章で触れた「民族大移動」が始まる頃には、すでに昔日の面影を失っていました。
 その後も続く内憂外患の中で、帝国は東西に別れ、そしてその西半部は476年に早々と消滅してしまいました。しかし新たな首都コンスタンティノープルを含む東半部は、この後1453年に滅亡するまで生きながらえることになります。これが、今日東ローマ帝国ともビザンツ帝国とも呼ばれている国家です。

 ビザンツ帝国は当時のキリスト教世界で例外的とも言えるほどの高い文化を誇っており、特に首都コンスタンティノープルは、その莫大な富と繁栄ぶりとで有名な存在でした。ビザンツ人は同時代の西ヨーロッパ人を粗野な田舎ものとしか見ていませんでしたが、その傲慢な態度もまったく根拠のないものではなかったのです。
 コンスタンティノープルの繁栄ぶりは、比較的近くにあったキエフにも当然届いていました。ロシアでは長いことコンスタンティノープルを「ツァーリグラード」、つまり「皇帝の街」という名で呼んでいましたが、これにはこの街に対するロシア人たちの、一種独特の敬意が込められていると思われます。

 ただしビザンツ人にとっては、ロシアの地など北の彼方の「暗黒大陸」にすぎず、そこの住人へ関心を持つこともありませんでした。しかしこの大帝国とルーシとは、将来において重要な関係を持つ運命にありました。

2、ノルマン人がやってきた

 8世紀から11世紀にかけて、西欧諸国はスカンディナヴィア半島に住むノルマン人たちの襲撃に悩まされます。いわゆる「ヴァイキングの襲来」ですね。ただし彼らは必ずしも略奪だけを目的としていたのではなく、同時に商人でもあるという側面を持っていました。いずれにせよ、彼らは優れた戦士であり、航海者であり、そして恐れを知らない冒険者でした。その一部は遠く北アメリカにまで達したと言われています。コロンブスの航海より400年以上も前のことです。

 この当時、ノルマンの冒険商人たちはロシアにも現れました。ただしその最終的な目的地は例のコンスタンティノープルであり、ロシアは単なる通過地点にすぎませんでした。
 「海の民」という印象の強いノルマン人(ヴァイキング)たちが、どうやって広いロシアを通っていったのか、と思われるかもしれません。しかしロシアの自然条件は彼らに便利な通り道を用意していました。それはです。
 ロシアの川は概して幅広で、流れがゆるく、船の航行には適していました。また川の数が多く、かつ山地が少ないため、一つの川から別の川に移るのは容易なことでした。
 従ってノルマン人たちは、その気になれば川をさかのぼり、適当な地点から船を陸揚げし、それを引きずって別の川(水系)に移動することもできました。彼らはこの方法で、バルト海から川をさかのぼり、そして黒海に流れ込む南向きの川に「乗り換えて」、ビザンツを目指したのです。

 ノルマン人たちが、「通り道」にいるスラヴ人たちよりも軍事的に強力であったことは間違いありません。従って彼らはコンスタンティノープルに向かうとき、スラヴ人からここでとれる商品を調達したり、また自らの配下として連れ去ったりしました。当然ながら、わざわざ遠いスカンディナヴィアに戻るよりは、この地に腰を据えるグループもいたと考えられます。彼らはまた、地元のスラヴ人からは「ヴァリャーギ」という名で呼ばれていました。

3、キエフの3兄弟

 今まではルーシよりもその周辺の住民について多く語ってきました。ここで、肝心の東スラヴ人について書く必要があるでしょう。

 キエフ国家成立直前の東スラヴ人については、すでにある程度の記録が残されています。それによれば、彼らはいくつかの種族に別れて生活していたようです。当然ながらこれは血縁的な集団であり、外部に向かって広がることはありませんでした。
 年代記によれば、かつてポリャーネという種族にキー、シチェク、ホリフという3人の兄弟がおり、人々は長兄キーの名にちなんでキエフの街を築いた、のだそうです。これが一応都市キエフに関する最も古い記録とされています。ちなみにこれが起きた年は記されていませんが、初めて年代が記される852年よりも前の箇所なので、少なくともこれ以前の出来事として設定されていることになります。

 このエピソードは、現実の出来事かどうかはおくとしても、非常に興味深いものと言えるでしょう。まず第一に、ここでキーはポリャーネ族の「」と呼ばれ、また彼らの死後にその一族がポリャーネの中で権力を持った、とされています。つまり、すでに種族集団の中で世襲の権力が現れたことが示唆されているのです。
 第二に、このポリャーネと呼ばれる集団は年代記作者によって「特別扱い」をされています。ポリャーネ以外にドレヴリャーネ、ラジミチ、セーヴェルなどの種族の名が挙げられていますが、彼らは穏和なポリャーネとは違って野獣の如き粗雑な連中であった、ときめつけられています。
 これは、実際にポリャーネの性格がどうであった、という問題ではなく、キエフの建設者であった彼らポリャーネこそが、後のルーシ統一の中心となった事実の反映であったと解釈すべきでしょう。つまり後世の年代記作者によって美化されている、というわけです。ノルマン問題とのからみで、興味深い記述と言えます。

 ところで森の住民であった彼らスラヴ人は、今までに述べた強力な隣人に取り巻かれていました。年代記によれば、ポリャーネを含む南方のスラヴ諸族は南方遊牧民のハザール人に、北方の諸族はノルマン人に貢税を払っていたようです。
 スラヴ人たちにとってこうした状況が不本意であったことは間違いないでしょうが、彼らが種族ごとに分散し、国家としてのまとまりを欠いているうちは、そこから抜け出すことは出来ませんでした。

 さて、次回はいよいよ「キエフ公国」建国(のハズ)です。正直、前史でこんなにかかるとは思いませんでした。やっと世界史の教科書に出てくるレベルの話になりそうです。乞うご期待。


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