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12月31日朝日新聞デジタル朝刊記事一覧へ(朝5時更新)

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企画特集 3【神奈川の記憶】

(133)駐独大使・大島浩、晩年の言葉

写真:ベルリン市内を歩く前列左から4人目が駐独大使の大島。その右が外相松岡洋右。ここから日本への帰途に松岡がモスクワで日ソ中立条約を結ぶ=1941年3月 拡大ベルリン市内を歩く前列左から4人目が駐独大使の大島。その右が外相松岡洋右。ここから日本への帰途に松岡がモスクワで日ソ中立条約を結ぶ=1941年3月

写真:東京裁判で判決を受ける大島浩。1票差で死刑ではなく無期禁錮となった。その判決からこの12日で70年となる=東京・市谷 拡大東京裁判で判決を受ける大島浩。1票差で死刑ではなく無期禁錮となった。その判決からこの12日で70年となる=東京・市谷

写真:三宅正樹さん。「日独伊三国同盟の研究」(1975年)などの著作で「大島さんの証言は大きな心証となったが、発言をそのまま紹介したことはなかった」 拡大三宅正樹さん。「日独伊三国同盟の研究」(1975年)などの著作で「大島さんの証言は大きな心証となったが、発言をそのまま紹介したことはなかった」

■「私は失敗者、弁解しない」

◇大戦で動乱の国際情勢を回想

 明治大学名誉教授の三宅正樹さん(84)が茅ケ崎市の海岸近くに居を構えたのは半世紀近く前。国際政治や外交の歴史が専門で、日本が米国との戦争に踏み出す大きな契機となった日独伊三国同盟の研究に取り組んでいた。しばらくすると思いがけない人が近くに住んでいることに気付いた。

 大島浩。陸軍出身でナチス政権下のドイツに駐在武官や駐独大使として勤務した。政権の首脳と親交を結び、「ヒトラーは本大使にこう語った」というベルリン発の電報は日本の政策に大きな影響を及ぼした。A級戦犯として東京裁判に訴追され無期禁錮の判決を受けた。1955年に保釈され茅ケ崎に住んでいた。

 訪ねると話を聞かせてくれた。「私は失敗した人間だ。何を言っても弁解ととられる。だから私の語ったことは外に出さないでほしい」との条件がついた。通ううちに録音を認めてくれた。そうしたインタビューテープを三宅さんは大切に保管してきた。大島が亡くなった後、「お好きにして結構です」と夫人の了解を得ていたが、これまで発表したことはなかった。

     *

 そのテープを聞かせてもらった。73年の録音で十数時間分。大島は亡くなる2年前で87歳だった。

 興味深いのは独ソ戦だ。39年に不可侵条約を結びながら、41年にドイツはソ連に攻め込んだ。

 「ヒトラーはソ連の軍事力を低く見ていた。39年にフィンランドに攻め込んだソ連軍がさんざんな目に遭ったのを見て、その戦力はたいしたもんじゃないと見くびった」

 「開戦から間もなく前線を視察した。捕獲したソ連の大砲を試すと、命中精度が高い。兵もよく訓練されていた。私もソ連軍は弱いと考えていたから驚いた」

 独ソ戦を「ドイツが必ず負ける戦争だったのか」と振り返っている。純軍事的に戦力を集中しモスクワを攻めれば結果は違っていただろうとの見方だ。そうしなかったのはヒトラーの判断で、コーカサスの石油を手に入れる政治的思惑があったからと説明している。

 なぜソ連を攻めたのか。「ドイツの宿敵はロシア。ヒトラーは一貫していた。しかしドイツを強くするにはベルサイユ条約を壊すことが必要で、それでまず英国が敵になった」

 大島の父はドイツ陸軍の制度を日本に導入したことで知られ、陸軍大臣までつとめた。その父のもと、大島は小さい時からドイツ語を学んだ。録音にはしばしばドイツ語が登場する。34年に駐在武官としてベルリンに赴任し、38年に大使に昇進。39年に辞任するが40年に三国同盟が誕生すると再び大使に任命され、45年までその職にあった。

 「ユダヤ人虐殺は知っていたか」と尋ねられると、「うわさはあった。あんな大規模とは知らなかった。ヒトラーは何しろ性格が変わっていた。俗人では分からない」。ヒトラーへの言及は多く、「勘がいい。本を読む。人の意見を聞きたがる。研究心が盛んだった」などと述べている。

 大使としての仕事も述懐している。日本軍がソ連軍と戦った39年のノモンハン事件では、東京から「ドイツに仲介を依頼しろ」との指令を受けた。「日本が勝っているという話ばかり聞いていたので、仲介なんておかしいじゃないと思ったが、独外相に頼んだ。それをソ連のスターリンに伝えると、〈勝っているのはこっちだ。こちらから戦争はやめない〉と言われ、恥をかいたと独外相にこぼされた」と述べている。

 40年に日独伊三国同盟ができると、41年に外相の松岡洋右が欧州を訪問し、日ソ中立条約を結ぶ。ドイツはソ連攻撃の準備を進めていた。「ドイツに不利になるので、ソ連との条約を結ぶな」と大島も独外相も説得したが、松岡は聞かなかった。「松岡は独ソ開戦の機運を信じていなかった」と大島は振り返っている。

     *

 「自分の責任は痛感するが」としたうえで、大島は37年の盧溝橋事件を「最大の失策」と指摘している。「中国との戦争を始めた。どうしてあんなことをやったのか。ヒトラーは何かをする公算が大きかった。日本にとって最も大切なのは事を構えないことだった。日本は眼光が欧州に届いていなかった」と振り返る。日中戦争がなければ、独ソ戦が始まった時に異なる選択肢があったとの思いをにじませている。中国への敬意を失ったことが戦争の原因だったとも述べている。

 録音されたのはベトナム戦争の時期。「米国は大国で鎧袖一触(がいしゅういっしょく)だと思った。ベトナムを簡単に倒せると思った。日本と同じことをした」とも語っている。

 「世捨て人のような暮らしでした」と三宅さんは大島の様子を語る。選挙に出てほしいと要請を受けても「自分は国家をミスリードした。公職につくのは許されない」と固辞。「何かを話したかった。それは大島さんの遺言のように思えます」と三宅さんは語った。

(渡辺延志)

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