米軍マネーで東南アジア随一の経済繁栄を誇ったのもつかの間

南ベトナム

ベトナム国→ベトナム共和国→南ベトナム共和国
首都:サイゴン 人口:1937万(1973年)

  
ベトナム国とベトナム共和国の旗は同じ(左)。南ベトナム共和国の旗(右)は、北ベトナムの旗(=現 ベトナムの旗) の下半分が青

1949年6月14日 サイゴンでベトナム国が成立
1955年10月26日 ベトナム共和国 となる
1969年6月8日 南ベトナムの反政府ゲリラ(ベトコン) が、ジャングルの「解放区」で南ベトナム共和国臨時革命政府を樹立
1975年4月30日 サイゴン陥落でベトナム共和国崩壊。 南ベトナム共和国臨時革命政府が全土を掌握
1976年7月1日 南北統一により北ベトナム(ベトナム民 主共和国)を継承したベトナム社会主義共和国となる

Ray's Map Room  ベトナム戦争中の各地の詳細地図(英語)
Vietnam War   ベトナム戦争中の各種戦況地図(英語)
Maps of South Vietnam 1965 - 1975  南 ベトナム当時の25万分の1の地図
南ベトナムの国歌(1949~1975) 南 ベトナムの国歌(1975~1976) 

一番劇的に消滅した国といえば、やっぱり南ベトナムですね。何十年にもわたって続いた戦争の果てに、1975年4月30日 に首都サイゴンが陥落。その際に解放軍が大統領府に突入する「国家消滅」の歴史的映像がテレビを通じて全世界に流れた(←ここがミソ!)わけですからね。 もっとも、厳密にいえば南ベトナムという国が消滅したのは、翌年7月のベトナム統一宣言の時になります。

北ベトナムの主席・ホーおじさん
フ ランス植民地だったベトナムは、日本軍の占領下で阮朝最後の皇帝だったバオダイ(保大)帝が 独立を宣言したが、1945年の日本の敗戦と共に瓦解。代わって抗日ゲリラ戦をしていたホー・チミン(胡 志明)率いるベトミン(越盟=ベトナム独立同盟)が9月2日にハノイでベトナム民主共和国の 独立を宣言した。

 一方で、ベトナムで再び植民地支配を続けようとするフランス軍は南部のサイゴンを占領し、46年6月に「フランス連合に留まって自治 を目指す」という親仏政権のコー チシナ共和国(※)を樹立したのち北上。ベトミン軍と衝突し、インドシナ戦争が始まった。

※フランス植民地時代のベトナムは、カ ンボジアやラオス、広 州湾とともに仏領インドシナを構成していたが、ベトナム南部は直轄植民地のコーチシナ(交趾支那)、中部は阮朝を存続させた保護国のアンナン(安 南)、北部は阮朝からフランスに行政を委任させたトンキン(東京)の3つに分割統治されていた。
さらにフランスは48年5月にサイゴンでベトナム臨時中央政府を発足させてコーチシナ自治共 和国を合流させ、ベトナム民主共和国に代わってベトナム全土を支配する親仏政権を作ろうとしたが、露骨な傀儡ではベトナム人や国際社会の支持が得られない と、香港に亡命していたバオダイ帝を担ぎ出すことにした。

こうしてバオダイ帝は49年にサイゴンでベトナム国の建国と独立を宣言するが、54年のディエンビエンフーの戦いでフランス軍は大敗北 を喫し、ベトナム維持を断念。7月20日のジュネーブ協定でとりあえず北緯17度線の軍事境界線でベトナムを南北に分け、北ベトナムはベトナム民主共和国が、南ベトナムはベトナム国が支配し、2年後に南北統一選挙をするこ とが決まった。

しかし南ベトナムでは内紛が続き、55年にはバオダイ帝が追放されて、ゴー・ディンジェ ム(呉廷●=王ヘンに炎)が大統領のベトナム共和国が成立し、ホー・チミンに 負けそうな統一選挙を拒否した。

一方、北ベトナムはホーおじさんことホー・チミンの指導の下で、武力によ るベトナム統一と社会主義化を決意。60年12月に南ベトナム解放民族戦線を成立させて、南 ベトナム政府軍を相手にゲリラ戦を始めた。この解放戦線は「腐敗した南ベトナム政府の横暴に抵抗し、ベトナム統一と民族解放を求める南ベトナムの広範な民 衆の統一戦線」という触れ込みだったが、実際には北ベトナムの傀儡に過ぎないということでベトコン(越 共=ベトナム共産党)と呼ばれた。

ベトコンの攻勢に加えて、南ベトナムでは軍閥の横行や、新興宗教(カオダイ教=高台教やホアハオ教=和好教)の私兵軍団の跋扈などでゴ タゴタし続け、ゴー大統領は「一族を要職に就けている」「カトリック教徒を優遇しすぎ」だと国民から激しい非難を浴び、抗議する仏教僧侶の焼身自殺が相次 いだあげく、63年11月にはクーデターが起きて殺害される。権力を握ったグエン・コクト大統領は64年1月のクーデターで倒され、新たに大統領となったグエン・カーン(阮慶)将軍も65年2月に解任されて、6月には再びクーデターが起きるなど、南ベトナ ムの政局は混乱続きだった。

  
ゴー・ディンジェム政権に反対する仏教徒のデモ(左)。ゴー大統領の弟の夫人がバーベキューと評した僧侶の焼身自殺 (中)。当時のサイゴンの下町(右)
 
南ベトナム政府を取り巻いた「敵」の数々
(1)南 ベ ト ナ ム 政 府
↑  ↑  ↑   ↑クーデター、政府庁舎爆撃
↑  ↑  ↑  (2)政権内反対派・軍閥・新興宗教やカトリックの私兵集団
↑  ↑  ↑抗議デモ、暴動
↑  ↑  (3)野党勢力・仏教勢力・知識人グループ(第三勢力や民主勢力と呼ばれた)
↑  ↑テロ、ゲリラ戦
↑  (4)南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)
実質的な軍事対立
(5)北ベトナム
そんな状態でも南ベトナムが国家を維持できたのは、フランスに代わって登場したアメリカの後押しのおかげ。アメリカが南ベトナムを支援したのは、北ベトナ ムが社会主義国だったためで、ベトナム全土が社会主義化したら、ドミノ倒しの如く東南アジア全部が社会主義化してしまうと恐れたからだ。また米軍が注ぎ込 むマネーのおかげで、南ベトナムの経済は東南アジアでも高水準で、国民1人あたりの年間所得は北の60米ドルに対して、南は117米ドル(いずれも62 年)と倍近い差をつけていた。
※ただし、南ベトナムの貿易収支は、62年が輸出5600万ドルに対して、輸入が 2億6400万ドル、71年には輸出わずか400万ドルに対して、輸入2億5500万ドルで、破綻状態にあり、完全に米軍マネーに依存していた。
チュー大統領
南 ベトナムの政局も、65年のクーデターで実権を握ったグエン・バンチュー(阮文紹)が、67年に軍事政権から共和制に移行して大統領に就任してからは安定に向かい、野党への弾 圧は続いたものの、私兵集団が白昼サイゴンで男狩り(兵士にするため)や女狩り(私兵のボスに差し出すため)をするような光景は、とりあえず姿を消した。 同時に米軍は解放戦線を支える北ベトナムを叩くためにハノイ爆撃(北爆)を繰り返すなど介入 を本格化させ、軍事的にも安定に向かうかと思われたが、それを揺るがせたのが68年1月のテト攻勢だっ た。

テト(旧正月)は共産ゲリラも一時お休みだろうと米軍や南ベトナム政府が油断した時に、解放戦線は南ベトナムの主要都市に一斉攻撃を仕 掛け、サイゴンでは国際空港(兼空軍基地)にゲリラ部隊が突入したほか、アメリカ大使館や米軍放送局を決死隊が占拠。解放戦線は4万5000人もの死者を 出して軍事的には失敗を喫したものの、戦略的には大きな成果を上げた。50万人以上の兵力を投入しながらゲリラの攻勢を許したアメリカの威信は崩れ、自決 覚悟で突撃するゲリラの映像は国際的な共感を呼び、アメリカ国内では厭戦ムードが、世界各地でもベトナム反戦運動が広がる結果になった。

解放戦線は69年6月に南ベトナム共和国臨時革命政府を樹立し、農村部や 山岳地帯に「解放区」を広げていった。南ベトナム政府軍vs解放戦線の内戦は、実際には米軍vs北ベトナム人民軍の戦争となり、さらに米軍は「ベトコンの 基地を一掃するため」とカンボジアやラオスにも侵攻して、戦火はインドネシア全体に広がっていった。米軍は解放区を丸裸にするため南ベトナムのジャングル に枯葉剤を撒き、村から追い出された農民は難民となって、首都サイゴンの人口は100万人から400万人へ膨れ上がった(※)。

※ベトナム戦争終結後の社会主義政権は、戦時中にサイゴンに流入した人たちなど約 350万人を、中部高原やジャングルを切り開いて作った開拓村(新経済区)へ強制的に送り込んだ。ベトナム政府としては「農村を破壊されて都市へ移住させ られた難民たちに、もとの農民としての仕事を与えた」と大義名分を掲げたが、いったん都会での生活に慣れた人々が電気もないような未開の地での生活に耐え られるはずがなく、旧南ベトナム住民がボートピープルとなって国外に大量脱出する一因となった。
しかし、戦争の泥沼化についていけなくなった米軍は、73年1月にパリで調印したベトナム和平協定で南ベトナムから撤退。しかし和平協定で実現したはずの 停戦は守られず、75年3月から始まった解放戦線の攻勢では南ベトナム軍は「中部高原からの全面撤退」という大きな作戦ミスをやらかし、わずか1ヶ月足らずで首都陥落という事態に追い込まれた。「アメリカの傀儡」と言われ続けたグエン・バ ンチューは、陥落10日前にアメリカを非難する怒りの演説を行って大統領を辞任し、海外へ逃亡。民主勢力に人気があったズオン・バンミン(楊文明)将軍が最後の大統領に就任し、解放戦線に和平会談を呼びかけたものの、もは や手遅れで完全になす術がなかった。

グエン・バンチューの辞任でサイゴン市民はようやく事態がただならないことを知った。それまでも解放戦線の攻勢でサイゴンが包囲された り、地方都市がゲリラに占領されることはあったが、100万人の軍隊を擁していた国が本当に滅んでしまうと は夢にも思ってみなかったのだ。しかし75年の攻勢では解放戦線だけでなく北ベトナムの正規軍も加わっていた。サイゴンの町にも砲声が轟く と、市民はたちまち阿鼻叫喚のパニックになった。アメリカ大使館に殺到して脱出用の米軍ヘリにぶら下がろうとしたり、サイゴン川に停泊している貨物船に数 万人の群集が押し寄せたりの光景は、テレビを通じて全世界へ伝えられた(※)。

※もちろんほとんどの市民はサイゴンを脱出できず、貨物船に群がっていた群集は、 やって来た解放戦線の兵士に「説得」されておとなしく家へ戻ったという。
そして1975年4月30日午前、ズオン・バンミン大統領はラジオを通じて無条件降伏を発表。解放軍が戦車を先頭にサイゴンの大統領府に突入すると、大統 領はサイゴンに残った閣僚たちと閣議室で解放軍の到着を待っていたという(※)。ズオン・バンミンは数日後に帰宅が許され、そのまま軟禁状態に置かれた が、83年に出国が認められてフランスへ渡り、2001年に死亡した。
※ズオン・バンミンは閣議室に入って来た北の代表に、「権力を委譲するために待っ ていた」と話しかけたところ、北の代表は「あなたの権力はすでに私たちが粉砕済みですので、委譲など無理ですよ」と応えたというのは、有名な逸話。ただし この北の代表も、90年にフランスへ亡命したとか。
一方、サイゴンを脱出したグエン・バンチューは、まず「反共同盟国」の台湾へ亡命したが、かつて北ベトナムを孤立させるために中国と国交を結ぼうとしたこ とがあったために疎んじられ、79年にイギリスへ移住。サイゴン脱出時にスーツケースに詰め込んだ35万ドル相当の金塊(※)で「ホワイトハウス」と名付 けた家を買い、「マーチン」という偽名(南ベトナム最後のアメリカ大使の名前)を使って暮らしていたが、ソ連・東欧など社会主義圏が崩壊すると、ベトナム の社会主義体制を崩壊させるチャンスだと判断して、アメリカへ移住した。グエン・バンチューはクリントン政権にベトナム政府との通商協定締結の仲介に当た らせるよう名乗り出たが無視され、やはり2001年に死亡した。
※当時のレートで約1億円で、国家元首の個人資産としては少ない方だろう。「南ベ トナム崩壊時に政府の資産を持ち逃げした」と言われたが、南ベトナム政府を接収した解放戦線は、国庫の資金が帳簿通りに残っていたことを確認したという。
南ベトナムの亡命政府のようなものとして、95年にカリフォルニアで結成された自由ベトナム政府が ある。ベトナムの社会主義政権打倒を掲げて、カンボジアとの国境地帯に6000人の反政府ゲリラを擁していると自称しているが、ベトナム国内で起こした事 件といえば、99年にホーおじさんの銅像を爆破しようという計画が発覚して関係者が逮捕され たくらいで、かつてのベトコンとは雲泥の差。自由ベトナム政府の「国家元首」は、かつてグエン・バンチューに追放されたグエン・カーンで、政争やクーデ ターを繰り返した南ベトナムの旧指導者たちが団結するのは難しいようだ。
  
南北の軍事境界線だった17度線(左)。サイゴンの大統領府に突入するベ トコンの戦車(中)。「ホーおじさん」の肖像を掲げて解放軍を出迎えるサイゴン市民(右)
 
サイゴン陥落後の国名に「南」が付いたワケ

サイゴン陥落後、南ベトナムではとりあえず解放戦線が作っていた南ベトナム共和国臨時革命政府が全土を掌握した形になったが、それまで の解放戦線の幹部に代わって北ベトナムの党・政府関係者が要職に就き、実質的には北による併合だった。翌年のベトナム統一では南ベトナム共和国が正式に消 滅して、ベトナム民主共和国はベトナム社会主義共和国と名称を変えた。

サイゴン陥落を境にして、南ベトナムの国名はベトナム共和国→南ベトナム共和国に変わったのだが、これは実は重要な問題だったりする。 世界には他にもいくつか分断国家があるが、たいてい双方が「ウチこそ唯一の正統政権で、あっちは国土の一部を占拠しているニセ政権。そのうち俺が全土を統 一してやる」と主張しているため、自ら国名に東西南北を付けたりはしない。ドイツ連邦共和国(西)←→ドイツ民主共和国(東)、イエメン・アラブ共和国 (北)←→イエメン人民民主共和国(南)といった具合で、中華人民共和国(大陸)←→中華民国(台湾)もしかり。日本のマスコミが北朝鮮のことを「北朝 鮮・朝鮮民主主義人民共和国」と必ず正式国名を添えて呼ぶのは、そう呼ばないと「さる筋の方々」から厳重な抗議が来るためでもある。

例外は北 キプロス・トルコ共和国で、「ウチは統一なんかしたくもされたくもありません。北側のトルコ人だけで独立してやっていきます」と主張しているか ら。
ベトナムの場合も、南北双方が「そのうち俺が統一してやる」と主張していたので国名に南北はつかなかったが、サイゴン陥落後の南ベトナムは「ウチはあくま で南だけです。統一するのは相手にお任せします」という立場だったから、正式国名に「南」がついた。さらに「南ベトナム共和国政府」というものは最後まで 存在せず、統一まで一貫して「南ベトナム共和国臨時革命政府」を名乗り続けた。「あくまで臨時の政府です」と分をわきまえていたということでしょう。

そういえば、南ベトナム解放民族戦線って「南ベトナム民族解放戦線」と言われることが多いけど(私もそう勘違いしていた)、よく考えた ら「南ベトナム」という民族がいるわけではなく、「南ベトナム民族を解放する戦線」じゃなくて「南ベトナム解放を目指す(ベトナム)民族の戦線」なんだか ら、解放民族戦線が正しいわけですね。

※上の地図は1976年3月発行の世界書院『中学校社会科地図』。サイゴン陥落後なので南ベトナム共 和国ですが、よ~く見ると「南」の字だけ後から付け加えたのがわかります(活字が違う)。英語の国名も他の国と比べて活字の大きさが違いますね。南北ベト ナムの国境線は「係争地」の扱いで破線。サイゴンは76年7月のベトナム統一時にホーチミンと改称されました。こういう個人崇拝は良くないですね

  
左はダナン陥落の混乱を伝える1975年3月30日付『読売 新聞』、右はサイゴン陥落を伝える1975年4月30日付『朝日新聞』。


  
南ベトナムの軍事パレードと国歌(左)、サイゴン陥落前後の 映像(右)

 

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五 十肩のベトナム戦争  テト攻勢さなかのサイゴン滞在記
1時間弱でわかるサイゴン陥落 サイゴン陥落当時の特派員の手記
自由ベトナム政府  アメリカにある南ベトナムの亡命政府。地下放送局 もやっています(英語とベトナム語)
Ngo Dinh Diem, the first democratically elected President of the Republic of South Vietnam  ゴー・ディンジェム大統領について英語)
Nguyen Van Thieu - President and ARVN Commander in Chief  グェン・バンチュー大統領について(英語)
 
 

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