父の一番上の兄、柴田一郎は戦争中、宮古島でマラリヤに罹って亡くなりました。私にとって伯父に当たる人ですが、そんな事情で会ったこともない伯父です。宮古島には従軍していた歩兵第三十連隊の慰霊碑があります。碑が建った時だと思いますが、父は生前慰霊祭か何かに呼ばれて宮古島に行きました。その写真を見たからそう知っているのであって、詳しい話は父から何も聞かないままになってしまいました。戦後七十年という節目の年だったこともあり、母と、1度私たちも宮古島に行ってみようか、という話が昨年あたりから持ち上がりました。
その話を、父の一番下の弟、猛叔父にしたところ、亡くなってすぐに伯父が埋葬された場所があるからそこを見て来てほしい、自分は20年くらい前に行って探したけれど見つからなかった、と言われました。そして、終戦後すぐに連隊の中隊長が父の父(つまり私の祖父)に宛てて送ってくれた手紙のコピーを、伯父の死亡通知のコピーとともに手渡されたのです。
中隊長からの手紙によると、伯父たちの隊は満州から宮古島に移動してきたのですが、大陸との気候の違いやマラリヤなどの風土病、施設や食料、薬の不足に兵隊さんたちは苦しめられたそうで、伯父も2ヶ月間病床に臥したのち、昭和20年1月14日に亡くなったのだそうです。
遺骨は分骨し、一部を残して船で本州に送られることになりましたが、途中那覇で攻撃されてしまい、海に沈んだようです。
残りの骨を、「宮古島の中核陣地であった野原越(のばるごし)部落東方台上の重砲陣地」の跡地の「合同墓地」に葬ったと手紙にはありました。
ではその野原越というところを探しに行けばいいのね、というくらいの感覚で大して下調べもしないまま、出発したのでありました。
1日目
まず、私たちは出発の飛行機に乗り遅れました。そんなことになったらどうしよう、と事前に不安になったりもしましたが、まさか本当にそんなことになるとは。そんな人もいるんですね。私たちですが。
今回は羽田空港まで車で行くから楽勝だな、なんて思ってたのが甘かったです。幸い、早朝の便でオフシーズンでもあったためか空港は空いていて、JALのスタッフのお姉さんに「どどどうしたらいいでしょう!」と泣きついたら代わりの便の席をすぐ取ってくださいました。朝イチの直行便に乗る予定でしたが、その次くらいの那覇経由の便を差額なしで用意していただきました。「直行便がご用意出来なくて申し訳ありません」とまで言ってくださいましたが、恐れ多いです。JALさん、ありがとう。
コーヒーのおかわりまでいただきました。
おかげで午前中に到着する予定がお昼過ぎくらいに着いた程度の遅れで、ほぼ事なきを得ました。トヨタレンタカー宮古島営業所のスタッフの方達には、おそらく何度も迎えに来させてご迷惑をおかけしましたが。
無事に宮古島空港に到着し、まず宮古島まもる君を記念撮影。・・・と思っていたのですが、あとで調べたら空港勤務はまもる君の兄弟のいたる君だったことがわかりました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/宮古まもる君
宮古島まもる君と18人の兄弟たちは、島中で島民の交通安全を不眠不休で見守っています。
大して下調べもして来なかったので、まずどこを訪ねたらいいか、トヨタレンタカーで「兵隊さんのお墓を探したいんですけど。」とお聞きしました。とりあえず観光協会がある場所を教えていただき、地図のコピーまでしていただいて、ヴィッツで観光協会へ向かいました。
観光協会は図書館の2階にありました。そこでも「兵隊さんを埋めたところを探したいんですけど」と中隊長からの手紙を見せてお尋ねすると、対応してくださった職員の方は「ちょっとお待ちください」とどこへやら誰かに電話をかけて詳しい話を聞いてくれて、しばし後「わかりました。」と戻って来て、「野原越のその場所にはもう骨は埋まっていません」「島中の埋葬地から骨を集めて慰霊碑に埋葬し直したそうです。」と教えてくれました。最初に書いた連隊の慰霊碑のことです。碑がある場所も地図を出して説明してくださいました。また、供養を続けているお寺が近くにある、との情報もいただきました。
結局、お墓参りをするならその慰霊碑に行くしかない、という結論に至った訳です。その日は雨で午後も遅い時間になりつつあったので、また他に目的もないので、翌日慰霊碑に行くことにしてそのままホテルにチェックインしました。
2日目
http://www.geocities.jp/fujimoto_yasuhisa/isizaka/kaigachou/e3.htm
陸上競技場の隣に宮古テレビの社屋があり、第三十連隊の慰霊碑はその裏にある、と昨日観光協会で聞いていたので今日はそこに向かいます。もともと伯父のお墓参りが目的の旅でしたので自宅からお線香を持って来ていましたが、ホテルにそれを忘れて出ました。そんなことばっかりの旅です。しかしお線香ならコンビニでも必ず売っているという確信があったので、ホテルに戻らず行きがけに購入しました。
宮古島には行く先々にココストアというコンビニがありました。関東では見ないコンビニなので、ファミマ等があっても決して入らず行く先々でココストアを利用し、コーヒーを買いました。
もちろんお線香も売っていました。ところがこのお線香がまた東京では見たことのない形状のものでした。こちらではこれがスタンダードなんでしょうか。
1列に繋がってて、平たいんです。
慰霊碑は第三十連隊のものだけでなく、他の連隊の碑や特攻隊員の碑もありましたが、それらが並んで立つ一角は通りから入り込んだひっそりとしたところで、近くを走っていても目印も何もないのです。ナビに住所を入力してもぴったりの場所には案内されず、観光協会で教えていただいてなかったら見つけられたかどうか、という立地でした。
ひっそり。
今日も雨が降っていて、母は「涙雨だね、私たちが来たからかな。」と言います。なんだかそんな感じがしないでもない空模様でしたが、島の方が言うには宮古島も最近は異常気象で、とのことでした。
慰霊碑に参ってお線香をあげたあと、前の日にメールした猛叔父から「ぜひ野原越にも行ってほしいな~」との返信が来ていたので、行くだけ行ってみることにしました。
宮古島空港から島の中央に向かってまっすぐ走って行くと、野原越交差点に当たります。その交差点にもあったココストアでコーヒーを買うついでに店員のお姉さんに、この辺に昔合同墓地があった場所を知らないか尋ねると、「自衛隊の辺りじゃないかと思うんですけど」とのこと。交差点から坂を上がって進むと高台に自衛隊の基地があります。じゃあ自衛隊に行って聞いてみよう、と向かいました。
自衛隊基地にはさすがにずかずか入って行けません。でも門の前まで行って車を停めると守衛の隊員さんが出て来るので、これまで通り兵隊さんのお墓を探しています、と中隊長の手紙を見せました。その手紙を手に若い隊員さんは雨の中、守衛小屋と私たちの間を何度も行ったり来たりしてくれて、おそらく中で他の隊員さんに聞いてくれたあげく、「島の人にも聞いてみたんですけど、基地の中に確かにその埋葬場所と、壕もいくつかあったんですが、今は施設を建設中で入ることも見ることも出来ません。」と説明してくれました。
基地の中に入れたとしても、最初にお骨を埋めた場所にはもう何か建物が建ちつつあって、その場に行っても跡を見ることも出来なくなっていた訳です。
仕方がないので基地周辺から、建設中ということはあの辺かな、と思う辺りを撮影。
基地の回りは一面畑が広がっていました。
これにて目的は全て達成された訳ですが、せっかくなので昨日観光協会で聞いた、連隊の供養をしてくださっているというお寺、祥雲寺に行ってみることにしました。
祥雲寺は観光協会の近くにありました。ここにも何か碑があるのかな、と敷地内を歩いていると「何か?」とご住職が出て来てくださったので中に入れていただき、碑のようなものはないけど位牌があってこちらで供養してます、と祭壇を見せていただきました。
慰霊碑と同様、いくつかの連隊の位牌が並んでいました。お線香をあげさせてもらって(お寺にあったお線香は普通のものでした)手を合わせ、ご住職からも「島のあちこちにあったお墓は植物の成長も速いので跡地が分からなくなっていたり、だんだん忘れられていっているんですよ」というお話も伺いました。
さて、これでもう他に何もすることはありません。この時点で2日目のまだ2時半です。夕方はホテルに帰って大相撲初場所をテレビで見ればいいとして、それまで何をしようか、その場で観光案内を広げて考えることになりました。
結局その日はそのあと、「島の駅みやこ」に寄ってから「宮古島海中公園」に行きました。
ここは海中に作った部屋の中から海の中を見ることが出来る施設です。階段を下りるだけでダイビング同様の経験ができるのです。
お天気が悪かったにしては、海の中はよく見えました。部屋から海中を見るというアイデア自体に感心しました。窓が小さいのは水圧に耐えるためで、万が一地震や津波でガラスが破損した場合には窓ごとに扉が閉じるようになっているんですって。
翌日、スーパーで会った地元のおばさまが言うには、「海中公園は第三セクターが作ったので、市があんまり力を入れてなくてね。」ということでした。確かに、そこへ行くまでの道が妙に畑の中の細い道だったり、整備されてないといえばそうでした。
3日目
羽田に帰る直行便は夜8時発の予定です。お墓参りも済ませて、3日目は完全フリーです。完全無計画でもありましたが、やっと3日目にして良いお天気になりました。20度くらいあったようで、半袖・サンダル履きの人もいました。
無計画といっても島に来てから入手した観光案内などで見繕って、今日は午前中に「うえのドイツ文化村」に、そのあと「宮古島温泉」に行くことにしました。
宮古島になぜドイツ?と思ったら、明治6年にドイツの船が宮古島南岸に座礁した事故があったそうなんですね。トルコのエルトゥールル号みたいな逸話がここにもあったのですね。
http://www.hakuaiueno.com/guidance.html
午後は空港周辺のスーパーなどで時間をつぶし、夕方早めに空港に行きました。行きの飛行機に乗り遅れたからでもないんですけど、早めに着いてお土産買ったり、ツアーのクーポンでマッサージ屋さんに行ったりしました。
沖縄に行くの自体、実は今回が初めてで、那覇には乗り継ぎで降りただけでまだ行ったことがない訳ですが、沖縄には何度も行きたくなる、という気持ちがわかりました。
どこに行っても皆さん親切で気候そのままのように温かく、戦争の跡が忘れられつつあるのは淋しく感じる人もいらっしゃるでしょうけれど、決して忘れている訳ではなく、でもひっそり残してあって、島じゅうに平和が満ちあふれているような穏やかさは代え難い価値があると思いました。
70年経ったらこんな風になったよ、と見せてあげられたら、亡くなった兵隊さんたちは悪い気はしないんじゃないかな、と私は思います。
お世話になった島の皆さま、行くきっかけをくれた一郎伯父さん、ありがとうございました。
その後
帰って来て週が明けたら東京は大雪、寒くて私は風邪をひきました。その翌週には沖縄にも寒波が襲来、2月に入ったら北朝鮮のミサイル騒ぎで宮古島自衛隊基地にも緊張が漲っていることだろうなぁ、と思うと、本当に良いタイミングで旅行出来たと思います。父や伯父の見えざる導きがあったのかもしれません。