向田邦子「かわうそ」 妻の着物に要注意

日本文学あの名場面/田中慎弥(小説家)

  • 神奈川新聞|
  • 公開:2018/12/09 09:58 更新:2018/12/09 12:05

「かわうそ」の一場面を拡大して読むにはこちらから(PDF)


 これまで当欄で私が取り上げてきた作家たち、例えば永井荷風や谷崎潤一郎みたいな文章が書いてみたい、あからさまに真似してやろうか、などと企んで失敗する、ということが時々あるのだが、この『かわうそ』の文章も、盗もうとして盗めない宝石だ。

 脳卒中の影響で休職している夫の宅次を、妻の厚子が世話している。「宅次が倒れてから、厚子はよく鼻唄を歌うようになった。」一見かいがいしく看病するけなげな妻という体だが、鼻唄まで出るのだから、どうやら夫が身動き取れなくなって、浮き浮きしているらしい。ある日、着物を着て出かける厚子を、宅次が病床から見送る。同窓生たちと、恩師へのプレゼントの下見に行くのだそうだが、果してそんな時にわざわざ着物を着るだろうか。男と会うのではないか、と宅次は疑っているが、病気の自分にはどうしようもない。その宅次からすると、胸を強調する着付けの妻が、普段よりも性的な感じに見える、という場面。病気のあと、もはや夫婦の間に性関係は復活しようがないのだろう。そのため、男に会うかもしれない妻がみずみずしく感じられるのだ。女性の胸を果実にたとえるのは、一歩間違うと陳腐だが、四十代になって小さくなった胸を「昔の夏蜜柑にする」滑稽さと、女としての性的な容姿への執着の怖さとを合せ持つ妻が、夫の目を通して描写されることにより、ありきたりな比喩になるのを免れている。妻の性が強調されればされるほど、妻は夫から離れ、人間として、女性として魅力的になってゆく。

 その人間としての生命力に溢れた妻を夫は、果実のあとで、今度はかわうそという動物に重ねている。かつてデパートの屋上で見たかわうそは「厚かましいが憎めない。ずるそうだが目の放せない愛嬌があった。」家の近くで火事が起きた時、「隣り近所を起して廻っていた厚子は、そばで見ていて気がひけるほど楽しそうに見えた」のであり、さらには、二人にとって一人娘であった星江がわずか三歳で亡くなったいきさつを読む時、そんなことあるわけがない、これは作家が頭の中で拵えた非現実的な話に過ぎない、単なる絵空事だ、と本当に切って捨てられる読者がいるだろうか。勿論、親は子を大切にすべきである。すべきなのは、大切にしない可能性を常に持つのが親であり、人間だからだ。
「火事も葬式も、夫の病気も、厚子にとっては、体のはしゃぐお祭りなのである。」


文学者の集いである「飯田橋文学会」のメンバー、平野啓一郎さん、田中慎弥さん、阿部公彦さんロバート キャンベルさん、中島京子さん、鴻巣友季子さんが神奈川新聞に連載します。

※次回は1月13日、阿部公彦さん。

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