大江健三郎「新しい人よ眼ざめよ」 書き続ける意味とは
日本文学あの名場面/平野啓一郎(小説家)
- 神奈川新聞|
- 公開:2018/11/25 10:42 更新:2018/11/25 10:54
「新しい人よ眼ざめよ」の一場面を拡大して読むにはこちらから(PDF)
『大江健三郎全小説』刊行開始時に講談社が行った「あなたの好きな大江健三郎作品を教えてください!」というアンケートでは、『万延元年のフットボール』が1位となり、以下、『個人的な体験』、『芽むしり仔撃ち』と続いた。ベスト3として、これらの作品が選ばれたことには私も共感したが、4位に本作『新しい人よ眼ざめよ』が入っていたのは印象的だった。
この作品は、主人公の「障害を持った長男との共生」と「ブレイクの詩を読むことで喚起される思い」とを交錯させた連作短編集で、小説であるので虚構化は施されていようが、直接に作者本人とその家族を思わせる書き方となっている。
無垢なる存在の受難と、それに対する近親者の態度、社会の反応といった主題は、『芽むしり仔撃ち』によって既に予告されているが、具体化したのは、やはり頭部に異常のある子供の誕生という、作者の実体験に着想された『個人的な体験』からである。
三島由紀夫が、『個人的な体験』を絶賛しつつ、その終わり方を、「暗いシナリオに『明るい結末を与えなくちゃいかんよ』と命令する映画会社の重役みたいなものが氏の心に住んでいる」と批判したことはよく知られていて、大江氏自身がそのことに何度となく言及している。
しかし、その末文で見据えられた「希望」の先に、どのような現実の共生があったのか。『新しい人よ眼ざめよ』が教えてくれるのは、まさにそのことであり、私は、自分が子を持つ身となったことも手伝って、かつて愛読した『個人的な体験』よりも、今では本作の方が遙かに感動が大きい。それは、常にカイロス的な瞬間の美学を夢見続けた三島が、遂に想像し得なかった小説であり、当時四十直前だった三島も、結局は、まだ若かったのではないか、という感を禁じ得ない。
本書には、感動的な名場面が幾つもあり、豪雨の日にイーヨーと主人公とが二人して伊豆の別荘へと出向いてゆく場面などは、異に忘れがたい。
引用したのは、最後の場面である。一週間の寄宿生活を終え、明るい成長の様子を窺わせていたイーヨーの唐突な言葉に主人公は動揺する。しかし、父子の関係は、今や家族による共生によって支えられている。ここには、決して取って付けたような「明るい結末」ではない、複雑に胸を打つ光景がある。そして、「もうイーヨーとは呼ばれたくないのじゃないか?」という問いは、『個人的な体験』末尾の「きみにはもう、鳥(バード)という子供っぽい渾名は似合わない」という言葉と美しく響き合っている。
小説家が、書き続けるということの意味を、これ以上なく深く感得させてくれる作品。
*次回は12月9日、田中慎弥さん。