太宰治「富嶽百景」 太宰の自意識が相対化される瞬間

日本文学あの名場面/中島京子(小説家)

  • 神奈川新聞|
  • 公開:2018/10/28 10:24 更新:2018/10/28 11:47

「富嶽百景」の一場面を拡大して読むにはこちらから(PDF))


  太宰治を読むのは、自意識を読むことである。どこを切っても、ぬわっぬわっと、「太宰治」の自意識が出て来るので、若い時はそれが苦手だった。とくに『人間失格』は、いまもどうも好きになれない。

 ただ、以前、仕事で新潮文庫の太宰を一気読みしたことがあって、同じように自意識がぬらぬらと滲(にじ)み出ていても、中期の作品は味があって面白いと思うようになった。好みの分かれるところだろうが、私はあまり病んでいない、そんなに死ぬ気のない、明るい太宰治のほうが好きなのだ。そんな太宰がいるのかと思う人もあるかもしれないけれども、あるのだ、そういう太宰治も。

 「富嶽百景」は、太宰中期の代表作である。

 昭和十三年の初秋、太宰は、師と仰ぐ井伏鱒二が仕事場にしていた甲州御坂峠の茶屋を訪ねて逗留(とうりゅう)する。

 そして、井伏鱒二と山に登ったり、かわいいお嬢さんとお見合いをして気に入ったり、ファンの青年と酒を酌み交わしたりする。その合間に、あの富士がいいとか、この富士がダメだとか、富士山を論評する。そういう、たわいのないストーリーなのだが、太宰はこの一篇の中で見合いだけでなく結婚もする。「富嶽百景」になんともいえない幸福感が漂うのは、これが正真正銘の結婚小説であるからかもしれない。

 名場面といったら、やはりここだろう。濃霧のパノラマ台。ちっとも姿を見せない富士山。しかし、泰然自若として山のごとき文士、井伏鱒二は一人、ゆっくり煙草(たばこ)を吸いながら、「放屁(ほうひ)なされ」るのだった。

 太宰の自意識は、このシーンの直前に全開になり、登山服を準備していなかった自分がいかにみっともなかったかに注がれていく。「蔦(つた)かずら掻(か)きわけて、細い山路、這(は)うようにしてよじ登る私の姿は、決して見よいものではなかった」とあるが、見よいか見よくないかを決めるのは、私以外の人間ではなかろうか。他人の見た目など、多くの人にとってどうでもよいものである、というような常識的な判断を、自意識は受け付けない。「私の毛臑(けずね)は、一尺以上も露出して」「われながらむさ苦しく」「いよいよ変で」、そうした「私」の風体を「身なりなんか気にしないほうがいい」と言う井伏鱒二先生の一言も、やっぱり変なんだ、そうなんだ、変なんだと、自意識に食い入って来る言葉に変換されてしまう。

 太宰のアップばかり撮るカメラのような視線が、頂上のパノラマ台で引いていき、霧の底の岩の上に悠然と腰を下ろし、軽妙な音を響かせる大家の姿に移る。そこにくっきりしたコントラストが描かれる。

 自意識の作家も、ここへ来てようやく自分から心を離し、霧の中に示されたステレオタイプの富士山写真を見ながら笑うのである。


文学者の集いである「飯田橋文学会」のメンバー、平野啓一郎さん、田中慎弥さん、阿部公彦さんロバート キャンベルさん、中島京子さん、鴻巣友季子さんが神奈川新聞に連載します。

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