田中英光「オリンポスの果実」 傲慢さが鼻につくけれど

日本文学あの名場面/田中慎弥(小説家)

  • 神奈川新聞|
  • 公開:2018/09/16 10:12 更新:2018/09/16 11:23

「オリンポスの果実」の一場面を拡大して読むにはこちらから(PDF)


 一九三二年のロサンゼルス五輪にボートの選手として出場した田中英光が、その体験をもとに、陸上競技の選手として出場した女性へあてた手記、という形で書いた小説。実のところ、私はこの作品が苦手だ。「秋ちん。/と呼ぶのも、もう可笑(おか)しいようになりました。熊本秋子さん。」という文章で始まり、「あなたは、いったい、ぼくが好きだったのでしょうか。」で終わる作品全体が、妙に甘ったるくて思わせぶりでべとべとしていて、さも純情であるように見せかけながら、相手にすり寄り、おもねっている感じがする。さらにはその裏に、自分のこの気持ちを相手が当然受け入れてくれる筈(はず)だ、という傲慢(ごうまん)さが潜んでいる気もしてしまう。あるいは、この小説はきっと読者に気に入ってもらえるに違いないとの、作家としてのひどい勘違いと高すぎるプライド、と言ってもいいか。とにかく何から何まで全部が鼻について仕方がない。

 また、作家の人生と作品への感想を結びつけてしまうのはよくないが、政治活動に身を投じた末に理想と現実の落差から離党、酒と薬と女性に溺れたあげく、尊敬していた太宰治の墓の前で自殺するという田中英光の生涯そのものもまた、人間としても作家としても、とてもついてゆけないというのが正直なところだ。私自身これまで何度か、自ら命を絶とうとしたことがあるのだが、他人の墓の前でというのはいくらなんでも悪趣味で、こんな死に方はごめんだ、と思う。そして勿論(もちろん)、作家の自殺そのものが、それほど恰好(かっこう)いいものでもなさそうだ、とも。

 じゃあなんで、苦手な作家の苦手な作品をわざわざここで取り上げるのか。上に引用した場面が、悔しいことにどうにも印象に残るからだ。女性がくれた杏(あんず)の実を食べ、種を海へ捨てようとしてやめ、ポケットに入れる。いやいやこれこそ甘ったるくて悪趣味で、鼻につくではないか、さんざん腐(くさ)しておいて今度は持ち上げてみせるのか、お前こそべとべとにおもねっているではないか……。確かにその通り。実を食べてしまったら、残った種なんかさっさと捨ててしまえばいい。もし取っておくとしても、土に埋めて芽が出るのを待つというならまだ意味はあるかもしれないが、ポケットに入れておいてなんの役に立つのか。

 それでも、実を取っておきたくなることがある。無意味と分かっていてもそうしてしまうことがあるのだ。生きること、死ぬことに、なんの意味もないのだとしても。


文学者の集いである「飯田橋文学会」のメンバー、平野啓一郎さん、田中慎弥さん、阿部公彦さんロバート キャンベルさん、中島京子さん、鴻巣友季子さんが神奈川新聞に連載します。

※次回は9月30日、阿部公彦さん。

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