泉鏡花「歌行燈」 凝った構成と鳥肌立つ緊迫感

日本文学あの名場面/平野啓一郎(小説家)

  • 神奈川新聞|
  • 公開:2018/09/02 11:13 更新:2018/09/02 11:27

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 言文一致運動に背を向け、絢爛(けんらん)たる幻想的な文体を駆使した泉鏡花の小説は、現代の読者には、一見、取っつきにくくも感じられようが、ひとたび読み出せば、たちまちその美の世界へと飲み込まれてしまう。

 傑作揃(ぞろ)いの鏡花の作品群の中でも、この『歌行燈(あんどん)』は、とりわけ、重層的で複雑な構成の妙と、劇的なプロット、芸術(家)小説としての幾度もの戦慄(せんりつ)の瞬間、濃(こま)やかな心理描写と陶然たる幽美な結末によって、比類ない出来映えを誇っている。

 物語は、二つの場所での語りが同時進行し、やがて一つに結ばれるという凝った作りである。一方の主人公は、『東海道中膝栗毛』のパロディめいた謎の二人の老爺であり、彼らとお三重さんという芸者との旅籠(はたご)屋でのやりとりが描かれる。もう一方は、そこからほど近いうどん屋を訪れた門附(かどづけ)で、彼はその女将を相手に自らの境遇を打ち明ける。

 小説の終盤で明かされるが、実はこの老爺たちは「本朝無双」の小鼓の名手・辺見秀之進と、やはり日本随一の能役者・恩地源三郎であり、門附は、源三郎の甥(おい)で、将来を嘱望されつつ行方を眩(くら)ましていた恩地喜多八である。

 三年前、喜多八は、叔父たちと伊勢を訪れた折に、宗山と名乗る地元の謡の名人の噂(うわさ)を聞きつける。盲目の「按摩(あんま)鍼(はり)」らしいが、東京から来た彼らを物ともせぬその傲岸(ごうがん)な態度に腹を立て、喜多八は、叔父に内緒で彼の許(もと)を訪れ、完膚なきまでに芸の格の違いを思い知らせる。ところが、この若気の至りの仕打ちは、思いがけず、宗山を自殺に追いやってしまう。事態を知り、激怒した叔父は、養子にまでしていた喜多八を即座に破門に処する。

 その後、三味線と謡の流しでどうにか喰(く)い繋(つな)いでいた喜多八は、ある時、無芸なために虐待されている薄幸の芸者と出会い、それが宗山の遺児であることを知って、罪滅ぼしのために密(ひそ)かに舞を授けてやる。その芸者こそが、偶然にも今、源三郎たちの座敷に上がっているお三重なのだった。

 源三郎は、彼女の舞を一目見た瞬間、誰からそれを習ったのかを見抜く。そして、その経緯を聞き、深く感じ入って、彼女とともに舞を舞い始めた時、うどん屋で遠くから鳴る鼓の音を聞きつけた喜多八は、卒然と、旅籠屋に駆けつけるのだった。

 引用したのは、喜多八がまさに宗山を追い詰める場面だが、能に限らず、音楽好きなら覚えず鳥肌を立たせるような緊迫感である。

 それにしても鏡花の登場人物たちはよく笑う。それが悲劇的な耽美(たんび)性の風通しを良くしていて、お化けが出てきても妖怪が出てきても、読後には一種の爽快さを心に残すことになる。

文学者の集いである「飯田橋文学会」のメンバー、平野啓一郎さん、田中慎弥さん、阿部公彦さんロバート キャンベルさん、中島京子さん、鴻巣友季子さんが神奈川新聞に連載します。

*次回は9月16日、田中慎弥さん。

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