梶井基次郎「泥濘」 名作「檸檬」の影絵のような

日本文学あの名場面/ロバート キャンベル(文学者)

  • 神奈川新聞|
  • 公開:2018/07/22 12:30 更新:2018/07/22 12:30

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 梶井基次郎の代表作「檸檬」より半年後、大正一四(一九二五)年七月に発表された一人称短編小説である。ある朝、とらえどころのない憂鬱(ゆううつ)に鎖(とざ)された青年奎吉(けいきち)は東京の郊外にある下宿を出て、空想を膨らませながら、都心の街から街へと歩き回っている。「檸檬」と同じように本屋に入ったり、ある物(「檸檬」ではレモン)を買っていく内に意識に微妙な変化をきたし、その変化を遊ぶように「気持ち」の回想を繰り出していく。といって、黄色いレモンのような破壊的な高揚に駆り立ててくれる道具立てが用意されているわけではない。「泥濘」は描写も色彩も平淡で、春の雪解け水でぬかるんだ道のように語り手の心も、一人で歩き回る風景も、そことなく歩みづらく不安定なものとして表出されている。

 色調は光度の高い単調な白一色に統一されている。白い陶器の水差しに映る電灯をじっと見つめたり、ハガキや足袋やせっけんをそれぞれの店で選び、最後には宿への帰り道を皓皓(こうこう)と照らす月影まで、白いものばかりが流れている。地上を覆う春の泥濘とは対照的に、汚点のない、ぼんやりとしてしかつかめない自分の姿を反射させる物質になっている。

 奎吉は冒頭で、地方にある実家から生活費が届くのをひたすら待っている。書こうとして書けないでいる原稿のことが気にかかり、気持ちが暗い方へ向かうところへ小切手がやっと届く。換金するのに本郷にある銀行まで行かなければならない。行き方は省電(今の総武線)に乗り御茶ノ水で下車し、泥道を本郷まで上って銀行にたどり着く。用を済ましてからは逆戻り。散髪して雑誌を買い、足袋も買って今度は御茶ノ水から有楽町へ行き、思い立って銀座の街をぶらついてみる。銀座では値段の高いおそらく舶来のせっけんを買ってから尾張町のライオンに入る。酒と食事を頼むが、座っても歩いてもぼんやりしてしまい、浮遊感がぬぐえない。かつて母がたしなめる時に呼んだ自分の名前を、からかい半分に友人が真似(まね)て呼んでいたが、その記憶が蘇り、母本人ではなく友人が模倣した「奎吉」になる。「尾張町から有楽町へゆく鋪道(ほどう)の上で自分で『奎吉!』を繰り返した」。雲間から月が覗き、自分が何者かを見失う。

 引用した文章は一篇の終わり、月明りを浴びながら、奎吉は地上に投げられる自分の影の角度と距離の変化に見入っている。アイデンティティの分節と収斂(しゅうれん)を美しく静かに描きだす「泥濘」は、名作「檸檬」に対する一枚の影絵のように私の眼には映る。

文学者の集いである「飯田橋文学会」のメンバー、平野啓一郎さん、田中慎弥さん、阿部公彦さんロバート キャンベルさん、中島京子さん、鴻巣友季子さんが神奈川新聞に連載します。

*次回は8月5日、中島京子さん。

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