凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<20>やっとたどり着いた

抑留の記憶を語った関谷義一。「今までつらくて話せなかったね。死んでいった戦友に申し訳ないから」=長野県上田市

「今の方が下手だね」と、関谷義一(87)=長野県長和町=は謙遜してはにかむ。彼は「空道」と号する書道家でもある。神奈川新聞社の総務部に在籍したころは、社員の辞令を書くのも仕事だった。端正で流れるような筆致に人柄が表れていた、とかつての同僚は言う。

 関谷が入社した1953年当時、本社は朝日新聞横浜支局の一角にあった。元の社屋は戦災で焼失していた。「会社としての体裁が整っていなかったねえ」。関谷は法務を学び、株式会社組織とは何かを一から勉強した。入社4年目の56年12月11日には、本社の印刷工場が全焼。「あのときも朝日のご厄介になりました」。何とか一日も休まず、新聞発行にこぎ着けた。

 「新聞社でも折あるごとに思い出しましたよ、何かにぶつかったとき…」。あのときの三つの穴を。

 シベリア抑留で最初に連れて来られた地、チパリ。氷点下何十度の屋外で、柱を立てるための穴を掘らされた。ノルマは1日に3カ所。凍土は重い鉄棒をもはじき返す硬さだった。関谷はその苦役に耐え、隣にいた年老いた捕虜の分まで引き受けた。「お互い助け合う、それが全て。そうすれば、支えてくれる人が必ずおるんです」と。

 その捕虜は、幾度となく関谷に言って聞かせた。彼は学者だった。

 「私はとても帰れないが、あなたは帰って新しい時代に生きるだろう。世の中はどう変わるか分からない。だから大学だけは出ておきなさい」

 関谷が夢に見た帰郷からたった2カ月で上京したのは、その言葉を忘れなかったからだ。

 ほかの捕虜をいたわってノルマを代わり、それがソ連兵の琴線に触れて自らを助けた因果応報。一つの奇跡かもしれないその経験を、しかし関谷は決して吹聴しなかった。自爆、射殺、凍死、衰弱死という数え切れない戦友の死が、自らの生と裏腹に存在していた。老学者とも、それきりになった。「確かでないんだけれど、まもなく亡くなったらしいんだね…」

 昨夏、関谷が初めて抑留経験について口を開いたとき「ようやくたどり着いた」とつぶやいた。記憶の重荷を下ろすのに、70年という時間を費やさねばならなかった。

 =敬称略

 〈おわり〉

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