凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<19>今こそ上京せねば

 足かけ3年にわたりシベリアに抑留された関谷義一(87)=長野県長和町=にとって、ようやく帰り着いた新潟での2カ月など、ほんの一休みにすぎなかったに違いない。しかし彼は、復員から2カ月後の1948年10月、故郷の穏やかさを振り切るように上京した。

 「とにかくね、今出なくちゃ駄目だ、という思いでね」。東京の食糧事情は、農村地帯の新潟とは比ぶべくもなかった。それでも迷わなかった。かつて所属した陸軍航空隊の仲間を頼りに、まずは飛行場のある東京・羽田へ向かった。

 翌49年4月、関谷は、新制大学の1期生として専修大に入学、川崎市の生田キャンパスに学んだ。4年後に卒業すると、すぐに神奈川新聞社の文化事業部で働き始めた。入社のきっかけは、シベリア抑留当時の仲間の紹介。ここでも、シベリアの縁が生きた。

 「2人しか部員がおらないところから出発したんです。借金だらけでね、何もないんだから」。苦笑交じりに、関谷は当時の状況を明かす。その2人で、本放送が始まったばかりのテレビを宣伝するため、受像機とアンテナを車に積んで県内を巡ったこともある。仕事は手探りだった。

 東京も横浜も焼け跡が残っていた。横浜には、焼け出されて小さな船に住み着き、水上生活を送る家族もいた。45年5月29日の横浜大空襲で社屋を失った本社は、朝日新聞横浜支局のビルに間借りしていた。

 =敬称略

別離から70年後の“再会”

 この連載を読みながら、会田昌夫(74)=仮名、横浜市旭区=は、シベリアで亡くなった父を思う。4歳の時に別れたきりだから、父の顔は覚えていない。記憶もない。県の戦没者原票などによると、父は1946年3月、シベリアの病院で栄養失調のために死亡したらしい。

 会田の父に赤紙が来たのは、敗戦前年の44年7月。父は36歳になっていた。「妻と2人の子どもがいる中年男まで容赦なく狩り出して、戦地に送り込んだ」と会田は言う。

 母が姉と4歳の昌夫の手を引いて、千葉県佐倉の歩兵連隊に父を訪ねた。「母は、お別れに行ったんでしょうね」。それが、本当に今生の別れになった。

 「いつか、父の墓参を」と思いながら、会田は仕事に追われて定年まで働いた。その後、さまざまな手段で調べていくうちに、墓があったのはハバロフスク地方のコムソモリスク・ナ・アムーレという町に近い、アムール川沿いの小さな村らしいというところまで突き止めた。

 「墓がある場所を特定できなくてもいい、父が眠る地に行くだけでいい」。会田は2010年8月、成田から1人でハバロフスクに向かった。体調を崩していた姉は同行を見送った。

 11日、ガイドの案内で「このあたりではないか」と推測される林の中に踏み行った。父が眠る大地。別れてから70年を経た“再会”だった。ガイドが言った。「冬は氷点下30度を超えます」

 「やっと訪れることができました。安らかにお眠りください」と書いた札を樹木にくくり付けた。ブリキ缶の中にたばこ、酒、家族の写真を入れて埋めた。「もっと早く来てあげたかった」と涙をこらえつつ、長年の胸のつかえが取れる気もした。

 会田家の仏壇。父の位牌(いはい)のそばには“墓地”で拾った小石が供えてある。

【神奈川新聞】

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