凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<12>吉田正が「忘れた」歌

テレビ番組の収録で再会した吉田正(中央)と関谷義一(後列右端)=1970年ごろ(関谷さん提供)

 捕虜たちは、シベリアで森林の伐採や石炭の採掘などの重労働に従事させられた。それなのに食事は粗末で少ない。「食べてなくて力が出ない。それでノルマを達成できなければ、さらに食べ物を減らされる…」

 1946年から48年まで抑留された陸軍航空隊通信兵の関谷義一(87)=長野県長和町=は、ソ連軍による「不条理な悪循環」を説明する。中には、そうやって体が弱れば日本へ帰れると思い、自ら手足を傷つけた捕虜もいたという。ソ連兵に取り入り、優遇された者も少なからずいた。

 自分だけが早く帰るか、それとも、みんなで帰るか。「どんな人だって元気で内地へ帰りたい。ならば、それまでの間をどう過ごすかです」。関谷が思い出すのは、幾度か移された収容所のうち、スーチャンという地で出会った作曲家、吉田正(1921~98年)の存在だ。復員後、抑留生活の望郷を歌った「異国の丘」をはじめ、「いつでも夢を」「有楽町で逢いましょう」などのヒット曲で歌謡界をけん引した。

 敗戦から2、3年たつと収容所の食糧事情は徐々に改善され、演芸会を催す余裕も生まれた。吉田は「海(うみ)燕(つばめ)劇団」を組織し、捕虜の一人が手作りしたギターで曲を作った。故郷への思いを潜ませながらも、表面的には労働歌に見えるようカムフラージュしたという。

 既に米ソ対立が表面化し、収容所では共産主義思想がすり込まれた。帰国の欲求を「進歩思想」への従順で隠す必要があった。「ソ連兵に言い訳できるようにしたわけです。非常に頭の切れる人でしたね」

 関谷は復員後、シベリアで口ずさんだ歌を清書し、吉田に送った。交流は後年まで続いた。幼いころから書道を続け「空道」の号を持つ関谷の元に、書道展のたび吉田から花が届いた。彼が抑留中の自作を「忘れた」と語ったと、関谷はずっと後に知った。「忘れてはいないですよ。そう言わせた重みがあるね…」

【神奈川新聞】

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