凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<11>望郷の歌が心の支え

 1956年に日ソが国交を回復し、戦後初めて日本の新聞各社がソ連に入ることになった。その時、神奈川新聞社の社員になっていた関谷義一(87)=長野県長和町=は、記者に砂糖、塩、米、みそを託した。「船が向こうに着いたときに海に投げてくれ、と言って渡したんです」。シベリア抑留から生還した一人として、帰郷を夢見ながら命を落とした戦友たちへの、せめてもの慰めだった。

 「通信兵だから生き残れたんでしょうね」。陸軍航空隊「隼(はやぶさ)9876部隊」の通信兵として44年に朝鮮半島に赴いた関谷は言う。釜山、大邱、京城(現・韓国ソウル)、平壌、そして満州(現・中国東北部)の奉天(現・瀋陽)、安東(現・丹東)と渡り歩く中で、戦闘にも空襲にも遭わず、操縦士のように特攻で死ぬこともなかった。

 それに、関谷は幼少期から壮健だった。「(旧制)小学校の8年間で1日も休まず、校長先生から『学校始まって以来だ』と褒められました」。戦地やシベリアを生き抜いた関谷は両親に、天命に感謝している。

 「心の栄養でしたね」。先の見通せないシベリアでの抑留生活にあって、精神的な支えとなったのは音楽だった。捕虜になって2年目に差し掛かったころだったか、転々とした何カ所目かの収容所で、後に大作曲家となる吉田正(1921~98年)と出会った。

 「今日も暮れゆく/異国の丘に/友よ辛かろ/切なかろ/我慢だ待ってろ/嵐が過ぎりゃ/帰る日も来る/春が来る」

 戦後、抑留者の一人だった増田幸治が作詞し「異国の丘」の題名で愛唱されたこの歌の曲は、吉田が戦時中に満州で作ったといわれる。哀調を帯びた曲が望郷の念をかき立てた。「みんなで励まし合って帰ろう、というのが吉田さんの原点だったと思います」と関谷はおもんぱかる。

 死が称揚された戦中とは一変し、吉田の音楽が捕虜たちに「生きて帰る」意欲を呼び起こした。

 =敬称略

【神奈川新聞】

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