凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<8>操縦士の夢、かなわず

「天下の少年飛行兵の試験に受かったというだけで、父は喜んでおったです」。戦時中の1943年、両親に内緒で陸軍航空隊を志願した関谷義一(87)=長野県長和町=は、対照的な父母の反応をよく覚えている。

関谷が適性検査を受けるために上京するとき、父は東京まで送ってくれた。一方で母の表情は見るからに「反対」だった。「でも言葉には出しませんでした。父親は絶対でしたから」

その適性検査で、戦闘機のパイロットになるという関谷の夢は、いきなりついえた。椅子に座ったまま回転させられたり、すぐに立たされたり。その検査の成績が芳しくなかったのだ。「致し方ないね。目を回しておったら、空中では使い物にならないんだから」

配属されたのは操縦、整備、通信と3部門あるうち、通信だった。兵庫県の尾上教育隊で剣道や射撃などの軍事訓練を重ね、熊本県の菊池教育隊では通信兵としての専門教育を受けた。主な任務は飛行場、航空機と通信すること。作戦ごとに変わる数多くの暗号書に従い、地名や時刻、命令の具体的な内容を素早く翻訳せねばならない。

「毎日、トトツートトツー(モールス信号の音)と。それが教育隊におるときからの仕事でした」。精神と身体が軍隊に馴致されていった。

「致し方ない」と操縦士への道を諦めた関谷だったが、訓練中のある時、飛行場に駐機してあった新鋭の一〇〇式重爆撃機、通称「呑龍」を目にして、興奮を抑えきれなくなった。全長16メートル、全幅20メートル余り、最高時速500キロを誇る双発のプロペラ機が、銀色の機体を輝かせていたのだ。

「ああ乗りたい、と思って、こっそり操縦席に座ってね。夢だったから」。折あしく、そこを1期上の先輩に見られた。許されない勝手な行動だった。殴られて鼓膜が破れた。 =敬称略

◇少年飛行兵と予科練

陸・海・空軍を総称して三軍というが、旧軍には空軍がなかった。陸・海軍が、それぞれ独自の航空隊を持っていた。その搭乗員を養成する制度の一つが予科練(海軍飛行予科練習生)と少飛(陸軍少年飛行兵)。いずれも10代の志願者から選抜された。

予科練制度の正式な発足は1930年。全国から5800人を超す志願者が集まり、難関を突破した79人が横須賀海軍航空隊予科練習部(追浜)に入隊した。

少飛制度の原型が生まれたのは34年。やはり厳しい試験をパスした操縦70人、技術(整備、後に通信も)100人が埼玉県の所沢陸軍飛行学校に入校した。当時の呼称は少年航空兵。40年、少年飛行兵に変わる。

太平洋戦争が始まると、少飛と予科練は陸・海軍の航空戦力養成の中核として機能した。

戦局の悪化で大量・短期育成が図られ、少飛生徒は約1年間の基礎教育の後、操縦・整備・通信に分かれて専門教育を受けた。発足から終戦まで、4万人以上を育てたといわれる。

少飛と予科練。航空戦力の中核になったということは、特攻出撃を含めて、多くの犠牲者を出したということでもある。

【神奈川新聞】

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