凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<7>友人、親に黙って志願

「加藤隼戦闘隊」のDVD(発売・販売元 東宝、4860円)

「デゴイチとシゴイチ。特にシゴイチは格好いいんです」。10代半ば、新潟県の直江津駅に勤めた関谷義一(87)=長野県長和町=は目を輝かせて言う。

D51とC51、ともに当時の国鉄を代表する蒸気機関車だった。貨物を引っ張るデゴイチは大柄で力持ち。一方、旅客用のシゴイチはスマートで女性的。「私の鉄道生活の中では忘れることができないね。少年時代の一番の憧れでしたから」

その鉄道員生活を、しかし関谷は2年ほどで辞めた。きっかけは1943年のアッツ島玉砕、そして同郷、新潟出身の山本五十六・連合艦隊司令長官の戦死を伝える報道だった。

「こんなことをしている場合じゃない」。友人にも、親にも黙って、陸軍の少年飛行兵を志願。家族がそれを知ったのは、合格通知が届いたときだった。

国鉄ほど安定した仕事は少なかったし、何より戦地に赴く自分を心配する母親の苦しみはたやすく想像できた。「親に対しては不孝でした」。国鉄で支給される無料パスで両親に旅行をプレゼントしよう、との孝心もかなわなくなった。孝行より大義を取ったのだ、と関谷は自分を納得させた。「国のためになろう」

志願した戦闘機乗りの世界は、関谷にとって鉄道とともに憧れの存在だった。「エンジンの音轟(ごう)々(ごう)と隼(はやぶさ)は往く雲の果て…」。当時大流行した軍歌「加藤隼戦闘隊」は、軍国少年の心に火を付けた。「宙返り、横転と自由自在なんですから。乗ってみたいと思いましたね」。少年飛行兵の合格通知が人生で一番の喜びだった、と関谷は今でも思っている。

関谷は戦後、復員して古巣の直江津駅を訪ねた。そこで聞いた。「僕に続いて、駅員がどんどん辞めて軍隊に志願したらしいんです。言われちゃった、『あんたが行ったから、みんなおらなくなった』と」。自責の念を感じたという。

=敬称略

◆映画も大ヒット

1938年に国家総動員法が公布されて以来、国民精神総動員が叫ばれた。新聞だけでなく文学、音楽、美術などあらゆるジャンルで聖戦完遂と戦意高揚が図られた。

プロパガンダ映画も数多く作られた。「土と兵隊」「上海陸戦隊」「燃ゆる大空」「ハワイ・マレー沖海戦」-。いわゆる軍神を主人公にした代表的な作品に「西住戦車長伝」と「加藤隼戦闘隊」(1944年3月公開)があった。

映画「加藤隼戦闘隊」のモデルは“空の軍神”といわれた加藤建夫陸軍少将。海軍の「ゼロ戦」(零式艦上戦闘機)と並ぶ陸軍の名機「隼」(一式戦闘機)を卓越した技術で操り、加藤飛行部隊を指揮して中国大陸や南方戦線で大きな戦果を挙げた。“エンジンの音轟々と”で始まる隊歌も広く国民の間で歌われた。42年、ビルマで戦死。

映画の監督は山本嘉次郎、主演は藤田進、特撮は円谷英二。陸軍省後援、情報局選定作品の国民的映画となり、44年最高の興行成績を挙げた。

44年は、敗戦の前年。物資の欠乏で生フィルムの価格が5割値上げされ、劇映画は1時間13分以内に制限された。それでも、46本の劇映画が公開された。

【神奈川新聞】

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