凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<6>軍隊へと導いた鉄路

日本海と別れた信越線は妙高、黒姫の山々に向かって坂を上り始める。1キロ進む間に高度が25メートル上がる「千分の25」の急勾配が30キロにわたって続き、進行方向を変えながらジグザグに登坂するスイッチバックも連続。新潟、長野県境に近い柏原(現・黒姫)駅の標高は700メートル近くに達する。

関谷義一(87)=長野県長和町=の生家は、そんな「難所」に沿ってあった。「汽車が坂を上ってくるでしょう。機関車が2台つながってババババッ、ババババッと音を上げて…」。重い貨車を引いた蒸気機関車が、大きな動輪を時に空転させながら苦しそうに煙を上げる。その豪壮さに、関谷少年は見とれた。

小学校(国民学校)を卒業した関谷は、その憧れの国有鉄道に入った。勤務地は信越線と北陸線が交わる鉄道の要衝、新潟県の直江津駅。新入りの仕事は構内の掃除と、停車する長距離列車への給水だった。

1941年の日米開戦を前に、既に鉄道は戦時体制に組み入れられていた。「決戦輸送」のスローガンの下、行楽地へ向かう旅客列車が削減され、代わりに石炭や鉱石、セメントなど、軍需産業に必須の物資を運ぶ貨物列車が鉄路を占めた。

「軍隊の輸送があるでしょう。駅には兵站(へいたん)の司令部があって、糧秣(りょうまつ)(食糧)や物資を補給するわけです。食べ物は駅前の2軒の旅館が全て用意していました。配給制でしたから」。兵員輸送、それに、駅頭でしばしば見られた出征兵士を送る万歳三唱。直江津は戦争の空気に触れる駅でもあった。

関谷はある時、鉄道を狙った空襲に備え、宇都宮の陸軍施設で訓練を受けた。駅構内には防空監視所が設けられた。「1週間もいなかったけれど、軍隊は規律がいいなあと思った」。初めての軍隊生活の感想だ。

43年、相次いで報道されたアッツ島守備隊「玉砕」と、連合艦隊司令長官・山本五十六の戦死。それが関谷を軍隊に向かわせた。

=敬称略

◆玉砕と大本営発表

中国との戦争に先行きが見えず、ソ連軍との初の本格的戦闘になったノモンハン事件(1939年)で完敗した日本。にもかかわらず41年12月、今度は米英などを相手に太平洋戦争を始めた。

緒戦の勝利は長続きせず、42年6月のミッドウェー海戦で大敗。これが戦局の転換点になる。しかし、戦争を指導する大本営は事実を隠した。戦果は誇大に、わが方の損害は常に「軽微」-。偽りが大本営発表のパターンになった。

43年5月、アッツ島守備隊全滅。大本営は「全滅」を「玉砕」と言い換えて発表した。「撤退」は「転進」と表現した。

部隊の3分の1が打撃を受けると「全滅」とする見解があるが、日本軍の場合は文字通りの「全滅」。「生きて虜囚の辱めを受けず」と捕虜になることを戒めた「戦陣訓」が、兵士を“最後の突撃”に追いやったといわれる。

同年4月、連合艦隊司令長官・山本五十六大将戦死。マキン島守備隊、タラワ島守備隊の玉砕が続く。

44年に入るとサイパン島、テニアン島、グアム島の守備隊が玉砕。43年の御前会議で定めた「絶対国防圏」が破られ、米軍の日本本土空襲が目前に迫った。

【神奈川新聞】

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