凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<5>教育勅語の“優等生”

越後の雪は重い。湿気をたっぷり含んだ日本海の季節風が内陸の山脈にぶつかり、大雪を降らせる。越後の塩沢に生まれた江戸後期の随筆家、鈴木牧之(1770~1842年)は、「北越雪譜」に「山々波涛(はとう)のごとく東南に連り、大小の河々も縦横をなし、陰気充満して雲深き山間の村落なれば雪の深(ふかき)をしるべし」とつづった。

関谷義一(87)=長野県長和町=は1927年、そんな地域の一つ、新潟県中頸城郡(くびき)豊葦(とよあし)村の農家に生まれた。長野との県境近くに位置し、現在は妙高市の一部になっている。

「雪かきはもう、小さいときからね。屋根の雪を下ろさなければ家がつぶれてしまいますから」。家はかやぶきの合掌造り。晩秋には板で外壁を囲って雪に備え、冬は積雪のため2階から出入りした。「完全に埋まっちゃう。だから家の中は真っ暗でした」。小学校への行き帰りは大人たちが除雪しながら先導した。

冬の間の仕事は、わらで農具や民具を作ることだった。草履、わらじ、長靴のようなわらぐつ。作り方は父や祖父に教わった。その経験が、後のシベリア抑留で自身や戦友の命を救ったという。「防寒具ですからね。今も作れますよ」

関谷は学業で頭角を現した。小学3年のとき教育勅語を全て暗記し、書いてみせたのだ。「朕(ちん)惟(おも)フニ」に始まり、親孝行など「皇民」の徳目を明治天皇自らが説いた315文字。校長も村長も、村始まって以来だと驚嘆した。「褒められようというのでなく、覚えておきなさいと母方のおばあさんに言われたんです。それをまともに受けて…」

少年関谷は国有鉄道に入ろうと決めた。支給される無料パスで両親に旅行をさせたい、との孝心からだ。後に、これも勅語の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」の言葉通り、関谷は軍隊を目指す。「当時は軍国主義一色でしたから」。祖母は教育勅語を教え、祖父は日露戦争で戦死していた。軍国教育の優等生にとって、戦争は身近だった。

=敬称略

◆「皇国臣民」を育てる

1941(昭和16)年4月から、小学校は国民学校に改称された。児童は“少国民”と呼ばれ、「皇国臣民」としての意識を育てる教育が強調された。

校内の「奉安殿」には教育勅語の謄本と天皇・皇后の御真影(写真)が収められた。少国民たちは登下校の際、奉安殿に最敬礼しなければならない。校舎が木造でも、奉安殿は耐火構造だった。奉安殿を焼失した校長が責任を取って割腹自殺した事例から耐火構造になったともいわれる。

皇民教育の基礎になったのが教育勅語(教育ニ関スル勅語)。1890(明治23)年、明治天皇の名によって道徳の基本理念を国民に示す形で明示した。

「朕(ちん)惟(おも)フニ、我カ皇祖皇宗、国ヲ肇(はじ)ムルコト広遠ニ」で始まり、「親孝行」「慎み」「博愛」「勉学」など養うべき12の徳目を挙げた。

その一つが「一旦緩急アレハ、義勇公ニ奉シ」。国家危急の折は国に尽くすべし。この滅私奉公の精神こそ、教育勅語の眼目だったともいえよう。祝日には教育勅語を朗読することが義務付けられた。

教育勅語と軍人勅諭は、皇民精神育成の“必修科目”だった。

【神奈川新聞】

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