凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<4>朝鮮「サンゴウリ」の記憶

シベリア地図

◇運命分けた「三合里」

「朝鮮にサンゴウリという所があって…」。三合里。その響きは70年を経ても脳裏から離れない。

陸軍航空隊兵長を務めた関谷義一(87)=長野県長和町=は、敗戦直後に呼び集められた朝鮮の新義州を出て200キロ近く南、平壌郊外の三合里へと急いだ。道という道が馬や馬車、荷車で埋まっていた。

「デマが流れたんです。何日、何時までに集まらないと全員射殺される、という」。実際、ソ連兵は短機関銃、通称「マンドリン」で威嚇した。「着の身着のまま、命からがらですね」

食料も衣服も放棄して滑り込んだ三合里の収容所は、馬小屋に布を敷いただけのような建物だった。初秋の朝鮮半島北部は既に寒く、夜は押しくらまんじゅうをするように体を密着させて暖を取った。丸腰の関谷たちにはもう、抵抗する気力はなかった。「これはもう、はっきり負けたと思ったね」

新義州から三合里に向かう途中で逃げる機会はあった。既に日本軍の統率は崩れていたし、ソ連軍も随所にいたわけではない。実際、朝鮮半島を南下し日本に生還した者もいた。しかし関谷はそうしなかった。

「あくまで命令、ですね」。絶対服従という軍人の意識は、敗戦の一報だけで抜けるものでなかった。十数人の部下を率いていたことも大きかった。彼らは懇願したという。「一緒に連れて帰ってください」

たどり着いたのもつかの間、関谷はさらに200キロ近く離れた日本海沿岸の興南に移された。1、2カ月ほど港で荷役をさせられただろうか、ある日、乗船を命ぜられた。「日本に帰すと言われたけれど…」。もう冬になっていた。

敗戦直後から転々とした安東、新義州、三合里、興南、そしてシベリアへ。地図をなぞり、当時を思い出しながら関谷はつぶやいた。「地図で見ると近いねえ。地図で見ると…」 =敬称略

●1日に50人が死んだ

1945年8月15日、終戦。ソ連軍は朝鮮半島に展開していた日本軍将兵を武装解除し、数カ所の拠点に集結させた。そこで捕虜をおよそ千人単位の作業大隊に編成し、シベリアなど各地に送り込んだ。

朝鮮半島の中核的な基地になったのが、平壌郊外の三合里収容所。竹田正直著「三合里に消えた兄」(ツーワンライフ発行)によると、一時期は3万人以上の日本人捕虜が収容されていたという。

ソ連への移送が始まると三合里は、ほとんど空になった。が、終戦翌年の夏ごろから様相が変わる。シベリアでの極寒、重労働、飢餓の三重苦のために病気になった捕虜が次々に送り返されてきた。三合里収容所は栄養失調や赤痢、発疹チフス、コレラなど伝染病の療養収容所になった。

シベリアから逆送されてきた捕虜たちは、衰弱していた。その体で炎天下、平壌駅から三合里まで20キロ近くを歩かされた。病院の設備、薬品は不十分で、同書には「ひどいときには一日四、五十人の割合で死者がでた」とある。

シベリアよりはるかに祖国に近い地で息絶えた無念を思う。

【神奈川新聞】

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