凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<3>敗北悟るマンドリン

シベリア地図

みるみる高度を上げた戦闘機は上空で機首を翻し、一気に滑走路に突っ込んだ。エンジンとプロペラの回転音が近づき、周囲を圧する大音響とともに炎上した。5機も続いたろうか、敗戦から程なく、操縦士が自爆したのだった。

「もう生きておったって、という気持ちがあったんだろうね」。その瞬間を目の当たりにした関谷義一(87)=長野県長和町=は戦友の思いを推し量る。

関谷は1944年から45年にかけて、陸軍航空隊の通信兵として朝鮮や満州に身を置いた。役目は、作戦命令などの暗号をモールス信号で伝達すること。作戦上、重要な任務である一方で、地上戦のような殺し合いの場面に出くわすことはなかった。国内のような大空襲にも遭わなかった。それだけに、この自爆は生々しい死の光景だった。

「みんな目の前で…。つらかったですね」。自身、飛行機乗りを志して航空隊に入ったのだ。憧れの対象だった戦闘機が跡形もなくなり、炎を上げていた。

命令に従い、武器や通信暗号書を焼却、隠滅した関谷は、満州・安東(現中国遼寧省・丹東)から鴨緑江の大橋を歩いて渡り、対岸の朝鮮(現北朝鮮)・新義州へ移動した。

自爆を目撃したとはいえ、この時の関谷は決して「敗走」などとは思わなかったという。あくまで部隊の一員として命令に従い行動している-。それだけだった。「日本が負けるという考えは、最後の最後まで、爪のあかほども持たなかったね」

だが朝鮮に入り、やがて武装したソ連軍に遭遇して、自らの状況を知った。ソ連兵は肩から「マンドリン」の俗称で呼ばれた短機関銃を下げていた。

「バッと下ろして、ザザザッと(連射する)」。関谷の知っていた日本軍の兵器とは、迫力がまるで違った。「びっくりしました。初めて見た。これはもう駄目だと…」。関谷は、ようやく敗北を悟った。=敬称略

◇“張り子のトラ”関東軍

“泣く子も黙る”といわれ、最強、精鋭を誇った関東軍は、当初からソ連を仮想敵としていた。

日露戦争の結果、日本は中国・遼東半島先端の旅順、大連など関東州の租借権をロシアから譲り受けた。1919年、その租借地を拠点とする兵力約1万の軍隊と軍司令部が正式に創設された。関東軍である。

関東軍は勢力を拡大して満州事変を画策。最盛期の兵力は約70万人に達した。太平洋戦争が劣勢になると精鋭部隊を南方戦線に引き抜かれて弱体化。満州の根こそぎ動員で兵力70万人を維持はしたが、召集兵の年齢は高く、練度と装備は全くお粗末で、もはや“張り子のトラ”だった。

45年8月9日、ソ連が対日参戦。関東軍は敗走を続け、満州にいた日本人居留民を見捨てたと後に非難される。これが残留孤児を生む一因になった。

極東ソ連軍との休戦交渉に当たった関東軍総司令部の参謀らが「戦犯訴追と労務提供」を取引したとする密約説が戦後、浮上した。シベリア抑留研究会代表世話人の富田武は「停戦交渉のソ連軍は高圧的で取引など持ち込める雰囲気ではなかった」と密約説を否定する。

【神奈川新聞】

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