凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<2>暗号、武器隠滅の命令

1945年当時の地図

 敗戦を知ったのは満州の奉天(現在の中国遼寧省、瀋陽)郊外にあった飛行場だった。「負けたといっても、負けたという実感はなかったね」。当時17歳で、陸軍航空隊の通信兵として満州に赴いていた関谷義一(87)=長野県長和町=は、そう振り返る。

 直後、関谷は奉天から200キロほど南へ下った安東(現・丹東)の飛行場に転属を命ぜられた。現在の中朝国境となっている大河、鴨緑江の河口近くにある大きな街だ。列車を降り、飛行場から迎えの車が来るのを安東ホテルで待った。

 そのホテルは豪奢(ごうしゃ)な西洋式で、中央部の角張った塔が物々しく街路を見下ろし、外壁をれんがで飾った2階建てが左右に長く伸びていた。「満州国」の日本人のための施設だ。

 「ホテルの奥さんは泣いておりましたね。日本が負けたらしい、と」。1945年8月15日。昭和天皇が読み上げた終戦の詔勅、いわゆる玉音放送を、雑音交じりのラジオで聞き取ったその女性は、放心していたという。それでもなお、関谷に実感はなかった。

 「小さいころから、日本には神風が吹くと教わってきたから。それに、たとえ内地(日本国内)で負けても(中国大陸など)外地では戦い続けると思った。最後の最後まで戦うのが、私たちの使命ですからね」

 ホテルの女性の涙は関谷たち軍人にとって、軍隊の外(それを軍人は「地方」といった)のことにすぎなかった。安東の飛行場で、関谷たちは次の命令を受けた。ソ連軍が来る前に、無線のやりとりに用いる暗号書を焼却し、武器は穴を掘って埋めよ、というものだった。畳みかけるように、さらに命令が来た。「ただちに鴨緑江を渡り、朝鮮・新義州に集結せよ」-。新義州は、鴨緑江を挟んで安東の対岸に位置していた。「橋を渡るとき、持ち物に重りを付けて川に投げ捨てましたね。だから、何も持たずに…」=敬称略

◆従軍看護婦ら民間人も

 シベリアなどソ連領内に抑留されたのは、日本軍将兵だけではなかった。被抑留者約57万5千人(厚生労働省調べ)の90%以上は軍人、軍属だが、残りの民間人の中には従軍看護婦や女性タイピストらもいた。

 収容所は計約2千カ所。所在地は北極海近辺から南は中央アジア、東はカムチャツカ半島、西は黒海周辺までソ連領のほぼ全域(ほかにモンゴル)に及んだ。

 抑留された約80%がシベリアに収容された。その理由を、シベリア抑留研究会代表世話人で成蹊大名誉教授の富田武は「最果ての地、シベリアは労働力不足が最も顕著だった」という。

 ソ連が全土で使役した各国の捕虜は計400万人以上。地域別、業務別(鉄道敷設、道路建設、石炭採掘、森林伐採ほか)、さらに掘削や運搬など具体的な労働別に必要人数を割り出していた。それでもソ連側の準備が間に合わず、捕虜自身が自分たちが入る収容所を造った例もあった。

 冬季には氷点下30度、40度になるシベリア。「刃物で切られるような」と表される極寒と重労働、飢餓の三重苦に襲われて、約5万3千人(モンゴルを除く)が凍土に息絶えた。【神奈川新聞】

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