神奈川新聞と戦争(80)1941年 「非常時」生活に浸潤

 空襲の危機を前に「家庭は家庭を護(まも)り、職場の者は職場を死守する」と説いた1941年10月9日の神奈川県新聞(本紙の前身)。戦時色に染まった生活を伝え、それを一層強化した。

 「街の美談」と題した記事は、市井の人々の「銃後奉公」を称揚した。廃品回収などで得たお金を、町内会が出征兵士や戦没者遺族に贈った話や、履物店の同業組合が「余剰力奉仕」として、定休日に軍需工場で働き始めた話などだ。

 記事は冒頭で、町内には依然として「動(やや)ともすれば自由主義的、利己名誉の獲得に狂奔」する者がいる、と糾弾し、今が「臨戦態勢下」にあると強調。読者に「国民皆労」を求めた。自由主義は「旧態依然」の考え方だと非難した。

 同じ面に「堅牢(けんろう)で便利な生活用品展」と題した記事がある。小さな記事だが、戦時体制が生活に浸潤した様子がうかがえる。

 「戦時下の国民生活に相応(ふさわ)しい簡素で明るい生活用品を普及しやうと商工省では鉄銅等の禁制品を用ひないで公定価格より安くしかも堅牢で便利な新案生活用品を全国の製作者から募集し、『国民生活用品展覧会』を開催すべく準備中であつたが、この程家具、什器(じゅうき)、玩具等の応募品千百余点の中から二百六十点の優秀品を選び、九日から十八日まで十日間日本橋高島屋で一般に展観することになつた」

 同展覧会について、学会誌「デザイン学研究」60号所収の敷田弘子の論文「戦時体制下の商工省工芸指導所における機能主義と〈簡素美〉」が解説している。

 商工省(経済産業省の前身)は、傘下の工芸指導所を通じ、記事にもある「簡素」の語を美意識と融合させた。背景にあったのは、言うまでもなく物資の欠乏だ。余儀なく単純化を求められた生活用品は、日本固有の機能美の所産だと礼賛された-。

 その「美意識」は戦後まで続くことになる。

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