神奈川新聞と戦争(74)1945年 特攻は民族の「必然」

昭和天皇の「御精励」をトップに据えた1945年元日の神奈川新聞。下には特攻機の写真も。印刷は格段に悪くなった

 敗戦の年、1945年の元日紙面も「畏(かしこ)し 天皇陛下の御精励」の見出しが1面トップを飾った。「十隻を轟(ごう)撃沈破」「十機十艦船を屠(ほふ)る」など「大本営発表」に基づく戦果(もちろん虚偽)を伝える見出しも前年元日と変わらない。

 違うのは、随所にある「特攻」の文字だ。「天皇陛下の-」の記事にも「殉忠・特攻隊員に畏き御言葉」の袖見出しで、昭和天皇の「体当り機は大変よくやつて立派な成果を収めた、身命を国家に捧(ささ)げてよくもやつてくれた」との「御言葉」を書き立てた。

 体当たり攻撃自体は、41年の真珠湾攻撃で特殊潜航艇を用いた前例があり、32年の第1次上海事変の際には、点火した爆弾を抱え敵陣に突っ込んだとされる陸軍一等兵3人が「爆(肉)弾三勇士」と称賛された。

 だが、44年10月のフィリピン戦線の海軍「神風特別攻撃隊」に始まる特攻は従来と異質だった。組織的であり、生還を想定しなかったからだ(栗原俊雄著「特攻-戦争と日本人」)。そして、メディアはこぞって「軍神」をあがめた。

 元日紙面は、こうした状況下に編まれた。見出しには「特攻隊五隊敵船団に突入」「轟撃沈破卅(さんじゅう)三艦船…特攻隊航空部隊の総合戦果…」と特攻の文字が躍り、航空機の写真も「神鷲=神風特攻隊」のキャプションとともに掲載された。

 「特攻隊に武器を=今年の大東亜戦局=」と題した解説記事は、特攻隊を「組織化された我が反撃戦力の核心をなす」と認め、冷酷にも「意思のある爆弾」と形容。「日本が過去三年の苛烈な戦争の試練の結晶として到達した境地であり、祖国の歴史と栄光を保衛し貫かんとする鉄石心の示現である」と巧言を弄(ろう)した。

 翌2日、神奈川新聞社初代社長の樋口宅三郎は、コラムで「一億挙げて特攻隊たらねばならぬ」「銃後も特攻隊たれ」と呼び掛けた。さらに切腹に臨む武士が「これは伝家の名刀で中々切れ味がよろしゆう御座る」と微笑した、との逸話まで引き「特攻隊の精神」こそが「日本人の心」だと結論づけた。

 残酷な「作戦」を民族主義の「必然」にすり替えたのだ。 

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