神奈川新聞と戦争(73)1944年 国策に沿った三つ子
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- 公開:2018/06/29 15:37 更新:2018/06/29 15:39
三つ子の話題を国策の文脈で捉えた1944年1月1日の神奈川新聞の記事
ところが、2面には一見、趣の異なる記事が残されている。横浜市神奈川区の三つ子の話だ。「話題の三つ子も三歳のお正月を元気で迎へました」とあるから、生まれた時から知られた存在だったのだろう。記事によると、半井清横浜市長が名付け親らしい。
「誕生以来けふまで風邪一つひかず、虫気もなく元気に育つ」「まだ歩くことは出来ないが家中を三人がこそゝと這(は)ひづり回つて言ふことを聞かぬと両親が相好を崩して嬉(うれ)しそうな愚痴だ」「三人三様の性格が醸し出す賑(にぎ)やかな家庭狂騒曲」。おそろいの着物姿の写真がほほ笑ましい。
だが冒頭の一文に、この記事の意図が表れている。「沢山(たくさん)産んで強く逞(たくま)しく育てよ健民強兵の国策線に副(そ)つてこの世に生を享(う)けた三つ子」。生誕を「国策」と捉えた国家主義の論理を思えば、ほのぼのとした描写自体が、市民の幸福を祈るのでなく、戦争協力の一端だったといえるだろう。
3面には、神奈川新聞社初代社長の樋口宅三郎のコラムが掲載された。「挙県兵器廠(しょう)なり」と、神奈川を補給基地と位置づけ「県民の自覚と士気とが、いかに生産を左右し、延(ひ)いては一大消耗戦の航空戦に補給の完璧を期し得るや否やを決定する」と、脅迫めいた論理で協力を求めた。
「一粒の米を作るは、これ兵器増強の兵糧であり、一枚のシヤツを縫ふも又(また)然り」。前年の元日に「一粒も又国力」と題した詩を記した樋口の筆は、総力戦を体現する点で一貫していた。コラムで樋口は「われら県民兵は、その号令のまにまに突撃するのみだ」と読者に呼び掛けた。