人生踏み出すと意外に大したことなかった…天龍源一郎の世界一滑舌の悪い人生相談
元プロレスラーの天龍源一郎(68)が、「天龍源一郎の世界一滑舌の悪い人生相談」(白夜書房、1600円)を発売した。月刊誌「BUBKA」で約2年間連載された人気コーナーをまとめたもの。人間関係、仕事、恋愛、家族などの一般読者から寄せられた悩みをガチンコ解決する内容だ。意外と聞き取りやすいハスキーボイスで「引退後のベストバウトだ」と言い切る自信作。65歳まで一線級で活躍した「ミスタープロレス」が、現代に生きる人へ送ったメッセージとは。(樋口 智城)
相撲、プロレスと格闘技界に身を置き半世紀。2015年に引退した“ミスタープロレス”が、本のなかで悩める相談者にその人生経験を思う存分ぶつけた。
「始めは軽い気持ちで人生相談を引き受けたんですが、来る内容が重すぎて。みんな不思議なくらい悩んでいる。途中で、こりゃ正面からぶつからなきゃと思いましたよ」
伝えたいのは決心する勇気の大切さ。
「自分も相撲人生やプロレス人生のなかで、いろいろ節目はあった。踏み出す前に悩んで躊躇(ちゅうちょ)することもあったんですが、いざ歩み出すと、意外にたいしたことなかったんですよね」
サラリと言い切った言葉だが、天龍の波乱の格闘技人生を紐(ひも)解くとかなりの含蓄がある。大相撲では最高で前頭筆頭まで出世したものの、1975年に勃発した部屋の後継問題に巻き込まれ、結局は廃業。76年に全日本プロレスの門を叩いた。
「親方が亡くなって、跡目でガチャガチャして。俺たちのヒーローだった人たちのイヤな側面を見ちゃったんですよね。そもそも自分は不器用で、宴席とかに呼ばれてご祝儀もらってくる自分もすごく卑下していた。相撲辞めて『自分で稼ぎたい』って意識も強かったので『ちゃんこ屋』するか、話を持ちかけられた『プロレス』かどっちをしようか考えて。若かった(当時29歳)から、まぁプロレスかなって考えた」
全日では長州力との抗争、ジャンボ鶴田との「鶴龍対決」などを経て、次期エースの立場にまで上り詰めた。だが90年に突然、新団体「SWS」移籍。豊富な資金を持つ「メガネスーパー」がスポンサーについた新団体への参加は、当時のプロレス界を大きく揺るがした。
「あの決断は『プロレスが野球に負けないくらいメジャーになったな』と胸を張れたことが一番大きかった。一般の大企業がスポンサーになってくれるって、プロレスの価値が上がったということでしょ? それまでは全日の日テレ、新日のテレ朝くらいでしたから」
結局、SWSは2年で活動休止。周囲の目から見ると失敗だったとも言える。
「でも後悔なんて当然ないですよ。何せ自分で決断した結果ですから」
以降は自ら立ち上げた「WAR」などを経てフリーに。98年には新日本プロレスでIWGPヘビー級王座を獲得。05年には「ハッスル」にも参戦、活動の幅を広げた。
「オレが変化に富んでいれば、応援しているヤツも支持してくれる。その一心でやれば、おのずと道は開けましたよ」
15年に引退。今はプロレス界とは距離を置いた。今は滑舌の悪さを生かしてバラエティーなどに積極的に出演。第2の人生を穏やかに過ごしている。
「70年近く生きてきて振り返ってみると、悩んでいたことなんて全部小さな事だったと思う。ホント、迷ったら一歩踏み出した方が気楽。声を大にして言いたいですね」
最後に「本のなかで『若いときに童貞捨てたと言っても後々何の自慢にならない』って答えるくだりが一番心にキマシタ!」と言うと、こんな返しが待っていた。
「…。そういや記者さん、自分も人生踏み出せないとか言ってたな。だったら一度東スポあたりに転職して、プロレス的に一から鍛えられた方がいいんじゃないの」
◆天龍 源一郎(てんりゅう・げんいちろう)1950年2月2日、福井県生まれ。68歳。本名・嶋田源一郎。63年、中学2年生の13歳で大相撲・二所ノ関部屋に入門。76年の廃業後は全日本プロレスに入団、90年には新団体SWSに移籍した。92年にWARを旗揚げ。その後はさまざまなレスラーと対戦を繰り広げ、15年11月に引退した。3冠ヘビー級王座3回、IWGPヘビー級王座1回。猪木・馬場の両方からフォール勝ちした唯一の日本人選手。