【芸能・社会】舘ひろし「大らかな人だった」 名古屋で「石原裕次郎」展開幕2018年12月23日 紙面から
昭和の大スター、石原裕次郎さんをしのぶ「石原裕次郎の軌跡」展(中日新聞社共催)が22日、名古屋三越栄店で始まった。オープニングイベントには名古屋市出身の俳優舘ひろし(68)が来場。本紙のインタビューに応じ、裕次郎さんへの思いを語った。 8月の東京に続く巡回展の第2弾だが、裕次郎さんが交際中だったまき子夫人にあてたラブレターが新たに展示された。速達の文面にはこうある。 「夕べは楽しみにしていたのに少々がっかりしました。お仕事とあっては仕方ありません」 デートをすっぽかされたのだろう、若きスターの素顔が目に浮かぶ。展示するよう指示したのが舘だった。 「手紙は達筆で驚かされますね。東京展の後、もっとにおいのするものをとリクエストしたんです。食器などもこれで飯を食ったんだとか感じていただければ」 裕次郎さんへの思いが行動に駆り立てた。スペースの関係でベンツは展示できなかったが、その代わりに私物で温かみを伝えたかった。
「本当におおらかな人だったんです。足元にも及ばない人です」 1983年に石原プロ入りした舘。「西部警察」の撮影初日、石原裕次郎、渡哲也と書かれたイスに自分のものを並べたのだそうだ。怖いもの知らずの33歳だった。 「そうしたら『舘くん、10年早いな』と言われましてね。ぼくは若かったから、そういう時代じゃないです、と答えたんです。そうしたら『そういう時代じゃないのか』と笑いながら行っちゃいましてね」 若気の至りを許せる器量の持ち主だった。そんな裕次郎さんの背中を渡が追い、その背中を舘が追った。 「ぼくにとってはあくまで渡がいて、その先に裕次郎さんというスタンスです。大きすぎてあえて見ないようにしていたというのもありますね」 だが裕次郎さんが亡くなる前年の1986年に2人の距離がぐんと近くなったという。渡の指令でハワイに滞在する裕次郎さんの運転手を2週間務めたのがきっかけだった。舘はここでも裕次郎さんではなく、渡への思いを口にしたそうだ。 「バーでそんな話をしました。その時は何の反応もなかったんですが、スタッフに呼ばれて席を外したんですよ。あとからまき子さんに『あの時、いなくなってさびしがってたわよ』と言われましてね。うれしかったですよ」 不器用で武骨な男たちの世界がここにある。 展示は1月21日まで。元日は休み。入場料は中学生以上1200円、小学生600円。 (増田護)
◆高校時代はラガーマン 主将で統率力学んだ来年開催されるラグビー・ワールドカップ日本大会のPRキャプテンでもある舘。「今のラグビーは攻撃的ディフェンスが重要です」ときっぱり。日本代表で注目する一人が俊足の福岡堅樹選手(パナソニック)で、「スピードはもちろんのこと、果敢にディフェンスに行くでしょ。期待しています」と熱く語った。 愛知県立千種高ではラグビー部のキャプテンだった舘。「うさぎ跳びあり、水飲むなという時代でしたが大きなものをもらいました。キャプテンシーも学びましたし、それが今に生きているかもしれません」とラグビーに感謝していた。
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