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力道山が64年前に木村政彦をKOした理由…息子の百田光雄が証言「プロとして絶対に引けない部分があった」

2018年12月22日12時0分  スポーツ報知
  • 力道山

 日本プロレス界の父で1963年12月15日に39歳の若さで亡くなった力道山が15日に没後55年を迎えた。

 力道山は、1950年に大相撲を引退しプロレスラーに転向し、52年に日本プロレス協会を設立し、日本初の本格的プロレス興行となった54年2月19日に蔵前国技館で木村政彦とタッグを組んでシャープ兄弟と対戦し、前年にスタートしたテレビ放送と共に戦後復興の象徴となり国民的ヒーローとなった。

 ジャイアント馬場、アントニオ猪木ら昭和プロレスの隆盛を支えた多くの弟子も育てたが、63年12月8日に赤坂のナイトクラブで暴力団員の男に刺され、1週間後の12月15日に都内の病院で39歳の若さで亡くなった。

 命日にあたる15日には東京・大田区の池上本門寺で56回忌法要が営まれ、息子の百田光雄(70)、新日本、大日本プロレスなどで活躍した桜田一男氏(70)、リアルジャパンプロレスのスーパー・タイガー、納谷幸男(23)らレスラー、関係者30人が参列し、偉大な「日本プロレス界の父」を偲んだ。

 法要を終え、亡くなった当時、15歳だった百田は父の試合を通じて「プロレスとは闘いなり」と学んだという。そして「あまり言いたくはないんだけど」と前置きした上で1954年12月22日、蔵前国技館で行われた柔道日本一の木村政彦との一戦を振り返った。

 木村は、15年間不敗で「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」とうたわれた最強の柔道家だった。1950年からプロ柔道家となり、51年9月にはブラジル・サンパウロでヒクソン、ホイスらの祖父で柔術家のエリオ・グレイシーと対戦し勝利し、その後、日本初の本格的なプロレス興行で力道山とタッグを組みシャープ兄弟と戦った。しかし、新聞紙上で力道山のプロレスを「八百長」と批判し、両者が対戦することにつながっていった。試合は「昭和巌流島」と前評判をあおった「プロレス日本選手権」と銘打たれたが結果は、力道山が張り手を打ち続け、最後は顔面を蹴り上げ木村をKOで破った。あまりの凄惨(せいさん)な内容に新聞は力道山を批判した。

 この一戦を百田は蔵前国技館で見たという。試合後の雰囲気を「物凄い閑散としたというかシーンとなりました」と殺伐とした雰囲気になったことが鮮明に残っているという。

 「試合は途中まで普通のプロレスの動きでした。ただ、その中で、木村さんが父にちょっとした蹴りを入れた。たまたまなのか故意なのか分からないけど、映像で見ると金的に入っているんです。その瞬間に父の顔色が蒼白になりました」

 その蒼白の表情は自宅で怒る時の顔と同じだったという。

 「父は怒った時に真っ赤じゃなくて、蒼白になるんです。で、あの金的を蹴られた時に父の顔色が変わったのが遠くから見ていて分かりました」

 蒼白になってから力道山の動きが変貌した。 

 「顔色が変わってからは一方的でした。木村さんは何の反撃もできないままアウトだった。一方的で悲惨な最後でした」

 なぜ、父・力道山はあそこまで木村を追い込んだのだろうか。

 「それは、なぜ?じゃないでしょうね。多分、父の頭の中には相手が仕掛けたら行くぞっていう気持ちがあったんだと思います。ボクもいつも言われたけど、リング上に上がったから例え何が起きても始まったらやめるわけにはいかないんです。例えば、海外の試合で、もしトラブルが起きてケンカみたいになっても、そこで逃げ出した時点で明くる日からクビになるんです。残っていたら問題はありません。ですから、プロの社会は、そういう厳しさがあるんです。あの時、金的を蹴られた父は、残っている限りは勝たないといけないと考えたと思います。そういう意味ではプロとして絶対にここは引けないという部分があった。その代わり会場の雰囲気は、公開リンチのようになったので最悪でした

 試合後、木村の顔を見ると、無惨に腫れ上がっていた。リングに上がれば何が起きても闘いである以上は、「勝つ」という力道山のプロ魂が木村をKOした。そして、百田は、プロとして力道山と木村の間に差があったと見る。

 「格闘技でもスポーツをやっている人が見れば、シャープ兄弟戦で父とタッグを組んだ木村さんの動きの中で、父の動きの素早さ、テンポ、リズミカルな動きは木村さんとは全然、違っていました。木村さんはすり足に近い動きだったんで、父の方が軽やかだった」

 試合後は猛烈な批判を浴びたが「僕らは家族ですから、息子から見れば“うわぁ強いな”という気持ちしかなかった」と振り返る。

 そして「木村さんのことを悪くは言いたくない」とした上で「日本選手権から父が亡くなるまで木村さんは、何も口を開いていないんです。だけど、亡くなった後にいろんな雑誌とかであれはこうだった、どうだったとか言ったんですね。生きている間に言うなら分かります。亡くなってからしか言っていない。だったら、生きているうちに正々堂々と言っていただきたかった。それはやっぱり息子としてではなく、同じスポーツをやる人間としてそれはないだろと思う」と率直に明かした。

 そして「文句があるなら生きているうちに言わなきゃいけないし。後から、あれは八百長だ、どうとかって言うけど、八百長でボコボコにやられたということは、何なのかと言いたくなりますよ」と寂しそうにつぶやいた。

 父としての力道山は「ただただ怖かった。家でも怒られる時は、ケガをするので手で殴ることはしませんでした。殴る時は、“殴られるもんを自分で取ってこい”って言うんです」と明かした。「一番痛くなかったのは竹箒。はたきはムチみたいにしなって痛い」と笑った。成績が悪い、運動会、ケンカに負けたなどで怒られたという。「痣は年がら年中ですよ。今なら児童虐待ですね」と笑った。 それでも父に反発することはなかった。

 「僕らに厳しかったけど自分にも厳しかったですから。父は、どんなに夜中まで2時、3時まで飲んでいても朝は練習してシャワー浴びて、キチンと身だしなみを整えてからでとボクらの前に出てこなかったんです」

 木村をKOしたリング上でのプロとしての姿勢は、私生活から徹底していた。

 「家族の前でもプロとして隙を見せないほど自分に対して厳しい人でした。ですから父に逆らうことなんてできなかった」

 暴力団員に刺された8日は、事件が起きた赤坂のキャバレーから一度、懇意の医師がいた山王病院へ行ったが当直の外科医がおらず、赤坂のリキマンションの自宅に帰ってきた。外科医を手配した連絡を受け、病院へ向かい、そのまま手術をして一週間後に亡くなった。

 「亡くなる日も昼に見舞いに行ったんです。担当の先生から“大丈夫ですよ”って言われて、自宅に帰ったらその夜に急変した。連絡を受けて病院に着いた時にはほとんど亡くなっている状態でした」

 最後の言葉は記憶にないという。

 「入院後は僕らと口を聞いていない。何も口を聞かない父を見るのは不思議なぐらいだった」

 言葉を交わせなかった父から受け継いだのは、「気持ち」だった。それは自宅、リング上で目の当たりにした「プロ」としての姿勢でもある。

 「プロレスをこの国に興して、弟子たちに受け継がせた父の気持ち。この魂を次の世代にも継承して欲しいですね」

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